静かだな。
隣の部屋から聞こえるはずの寝息は、今はもうない。
たぶん、出かけたんだろうな。いつもの時間に、いつものように。
……ほんと、真面目。
私はソファに座って、ぼんやりとカップの中のコーヒーを見つめる。もうとっくに冷めてるのに、なんとなく口をつける気にはなれなくて。
別に、寂しいわけじゃない。
一人の時間は好きだし、慣れてるし。
昔から、そうやって過ごしてきたから。
なのに――
「……変だな」
ぽつりと呟いた声は、思ったより小さかった。
この部屋は、私一人でも十分広いはずなのに。
なんでだろう。
少しだけ、空っぽに感じる。
最初にここへ来た日のこと、今でも覚えてる。
ルームシェアの募集を見つけたのは、ただの偶然だった。
特別な理由なんてなかった。
一人暮らしにも飽きてたし、少しだけ環境を変えてみようかなって、それくらいの気持ち。
正直、誰と住むことになっても同じだと思ってた。
どうせ、適度な距離を保って、干渉しすぎず、ただ同じ空間を共有するだけの関係になるんだろうって。
――なるはずだったのに。
「……君は、違った」
初めて会ったときのこと。
緊張してたのは、お互い様だったと思う。
無理に話しかけてくるわけでもなくて、でも無関心ってわけでもなくて。
ちょうどいい距離を、最初から知ってるみたいだった。
それが、少しだけ不思議で。
少しだけ、安心した。
一緒に暮らし始めてからも、君は変わらなかった。
踏み込みすぎない。
でも、放っておきもしない。
私がリビングで寝てしまったときは、何も言わずにブランケットをかけてくれて。
私が落ち込んでるときは、理由なんて聞かないくせに、いつもより長く隣にいてくれた。
優しい人だと思う。
でも、その優しさを押し付けてこないところが、君らしい。
だからかな。
気づいたら、隣にいるのが当たり前になってた。
朝起きて、君の気配を感じることも。
キッチンで並んで立つことも。
くだらない話をして笑うことも。
全部。
全部、当たり前になってた。
「……慣れるって、怖いね」
ぽつりと呟く。
慣れてしまったら。
それがなくなったとき、きっと――
私は、思ってる以上に寂しくなる。
……やだな。
そんなの。
私は、もっとサッパリしてるはずなのに。
一人でも平気で。
誰かに依存したりなんて、しないはずだったのに。
なのに。
君がいないだけで、
こんなふうに、静かすぎる部屋を意識してる。
「……重いよね、こんなの」
苦笑が漏れる。
こんなこと、君には言えない。
言ったらきっと、困らせる。
君は優しいから。
困ってても、無理して笑うかもしれない。
そんな顔、見たくない。
だから――
この気持ちは、隠しておく。
今まで通り、
明るくて、
サッパリしてて、
気楽なルームメイトのままでいる。
それが、一番いい。
それが、一番壊れない。
……でも。
もし。
もし、ほんの少しだけ――
ほんの少しだけでいいから。
君が、
私と同じ気持ちでいてくれたなら。
「……なんてね」
尻尾が、無意識に揺れている。
ほんと、正直。
隠してるつもりでも、体はごまかせない。
私は立ち上がって、窓の外を見る。
空は青くて、
何も変わらない、いつもの日。
君もきっと、
何も変わらない顔で帰ってくる。
「……おかえりって、ちゃんと言ってあげよ」
小さく呟く。
当たり前の言葉。
当たり前の時間。
でも――
私にとっては、
もう、とっくに。
当たり前以上のものになってる。
ねえ、君。
私はきっと、
思ってたよりずっと、
君と一緒にいる時間が――
好きみたいだよ。