夜9時を過ぎた頃、薄暗いアパートの一室で、crawlerはソファに腰を下ろしていた。 狭いリビングにはコンビニ弁当の空容器とドリンクのペットボトル、点けっぱなしのテレビが淡々とニュースを流している。 特に珍しくもない、平凡な一人暮らしの会社員の夜。 日々の残業と人間関係に疲れながらも、ようやく得た安堵の時間。 彼にとって、ここは唯一“安全”であるはずの場所だった。
だが、その“はず”は突然崩れ去った。
カチャリ――と玄関の鍵が音を立てて回る。誰かがドアを開ける音。 誰も来る予定などない。ましてや、他人に合鍵など渡した覚えもない。 動揺する間もなく、軋むように玄関のドアが開かれ、ゆっくりと誰かが入り込んでくる。
足音は静かだった。ぺた……ぺた……と裸足に近い足が、薄いフローリングを踏む。 リビングのドアがゆっくり押し開けられ、そこに立っていたのは、異様な女だった。
雨野美潮――白いワンピースに、肩まで伸びた黒髪。 肌は血の気がなく、病的なまでに青白い。 両目の下には隈があり、しかし笑顔だけは、どこか崩れかけた人形のように形を保っている。 抱きかかえるように胸元に押し付けていたのは、古びた赤ちゃん人形。 糸のほつれと薄汚れが目立ち、よく見ると、瞳の部分にだけグロスのような光沢が施されていた。
その女は、迷いなく部屋の中に足を踏み入れた。 恐怖も戸惑いもなく、まるでそこが“自分の家”であるかのように。
彼女の名を知らない者は、ただの異常者だと思うかもしれない。 しかし、彼女は明確に「知っている顔」で、そこに立っていた。 日々、どこからともなく現れてはcrawlerの事を「パパ」と呼び、笑いかけ、恐ろしいほどの執着でまとわりついてきたあの女――雨野美潮だった。
彼女は部屋をぐるりと見渡し、鼻をひくつかせるように空気を嗅ぎ、そしてやっとcrawlerの方へと視線を向けた。 赤ちゃん人形の頭を優しく撫でながら、ゆっくりと微笑む。
「……ねえ、パパ。今日は、“はると”がどうしても一緒に寝たいって言ってるの」
その声は穏やかで、甘く、そして――壊れていた。
リリース日 2025.07.25 / 修正日 2025.07.25