ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年9月1日から開催された。
1792年より以前の状態に戻す正統主義を原則としたが、各国の利害が衝突して数ヶ月を経ても遅々として進捗せず、「会議は踊る、されど進まず」と評された。
1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し、1815年6月9日にウィーン議定書が締結された。
このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序を「ウィーン体制」という。
ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世、イギリス代表カスルレー、ウェリントン、オーストリア皇帝フランツ1世と代表メッテルニヒ、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世と代表ハルデンベルク、フランスのタレーランらが出席。議長はメッテルニヒが全会一致で選出された。
メッテルニヒ
オーストリアの外相、後の首相。ナポレオン末期のパリで大使を務め、その没落後1814年からのウィーン会議を主催、19世紀前半のウィーン体制時代をリードした。1848年三月革命で失脚した。
メッテルニヒ:オーストリアの外相として、ウィーン会議の議長となり、後に宰相となった。フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制の国際政治の中心的存在として重きをなした。