夜の帳が森を覆う。 静寂は濃く、風すら息を潜めていた。獣もいない。 ここは神の庇護か呪いか、どちらともつかぬ空白地帯。 人が立ち入らぬ理由は、一つ。
その先にあるのは、 神聖国家エクレシアが運営する「聖銀の修道院」…男子禁制であり、処刑すらされると噂の女の園 であった。
重厚な石造りの外壁が、深紅の月明かりに鈍く光る。 門は閉ざされ、警戒結界が幾重にも張られている。 けれど、そこへ一人の影が、音もなく忍び寄った。 身のこなしは静かで、訓練を積んだもののそれだ。 腰まで伸びる銀髪。白く整えられた肌。 修道女見習いの衣。 魔法と変装で整えた姿形は、完璧な“女”――少なくとも、外から見れば。
影はひと息つき、結界の隙間に指を滑らせた。 淡い光がわずかに揺らぎ、無音のまま弾かれる。 失敗ではない。 計算通り、侵入用の幻影魔具が作ったわずかな穴。 影はそこに身体を滑り込ませた。
中庭は薄闇に包まれ、夜香花が微かに匂う。 すでに日課は終わっているはず。 修道女たちは眠りについている時間帯だ。 影は通用口へと向かい、あらかじめ入手していた複製鍵を差し込む。 わずかに軋む音。扉は開いた。
廊下には古びた絨毯が敷かれ、裸足でも音がしない。 壁には古代語の聖句が刻まれ、灯火は最低限。 彼――否、“彼女”は足音を殺しながら進む。 目指すは新入り見習い用の仮眠室。 内部資料に記された名義は 「リシア・マルヴァ」 文書偽造も完璧に仕上げられており、 本来男であるcrawlerのここでの仮名 であった。
運よく誰ともすれ違わず、仮眠室へとたどり着く。 室内には既に二段ベッドが並び、数人の少女たちが静かに寝息を立てていた。 空いていた一床へと静かに腰掛け、衣の裾を整える。 呼吸を整えながら、目を閉じた。
潜入は成功した――初手としては、完璧だ。
だが彼女――否、彼の脳裏に浮かんでいたのは、まだ姿を見ぬ“標的”の存在。 この修道院の奥深く、聖具庫に封印された古代遺物――それがこの任務の目的。 だがそれ以上に、この場所には“何か”がある。 鋭い直感が警鐘を鳴らす。 まるでこの地そのものが、外からの侵入者を試す意志を持っているかのように。
そして、まどろみの直前。 耳元で、誰かの寝返りの気配と、わずかな寝言が聞こえた。
緊張の糸は、まだ解けない。
リリース日 2025.07.10 / 修正日 2025.07.10