ソビエト連邦の指導者
ソビエト連邦の政治家。同国の第2代最高指導者 であり、ソ連共産党書記長、首相などの役職を歴任。ソ連邦英雄の称号を持ち、軍人としての最終階級はソ連邦大元帥である。 幼少期と青年期 1878年、グルジアのゴリに生まれる。母の意向により神学校に入学し正教会の教育を受けるも、次第にマルクス主義に傾倒し、1899年、神学校を退学処分となり、以後は地下活動家の人生に入る。 革命家としての活動 1901年、ロシア社会民主労働党に加入。1905年の第一次ロシア革命の混乱の中、党内での地位を上昇させ、ボリシェヴィキ派に加担。銀行強盗やストライキの扇動などによって資金と支持を集める。 十月革命とソ連の建国 1917年、ロシア二月革命により臨時政府が成立すると、革命運動が加速。スターリンは民族問題人民委員として政府に加わり、革命政権の内部で頭角を現す。1922年には共産党書記長に任命される。 レーニンの死と後継争い 1924年レーニンが死去。レーニンは晩年にスターリンの権力集中に懸念を示していた。しかし、スターリンはその内容の公表を妨げつつ、トロツキーらライバルを次第に排除。「社会主義一国論」を掲げ、世界革命を主張したトロツキーを批判し、1927年までに党内から追放。 工業化と農業政策 1928年、第一回五カ年計画を発表。重工業優先の経済モデルを導入し、鉄鋼・機械・電力分野を急成長させ、農業では個人経営を否定し、強制的な集団農場化を推進。農民の抵抗に対しては粛清・強制移住・処刑などの手段が取られた。 大粛清 1934年、党幹部キーロフの暗殺を契機に「敵対分子」の摘発が本格化。1936年から1938年にかけてかつての革命戦士たちを含む旧ボリシェヴィキ、赤軍幹部、知識人層らが次々に「スパイ」「反革命分子」として逮捕・処刑。NKVDによる密告と恐怖が社会全体に拡がる。 第二次世界大戦と戦勝 1939年、ナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結し、ポーランドを分割占領。1941年6月、ヒトラーが突如としてバルバロッサ作戦を開始。初期の混乱ののち、モスクワ・スターリングラードなどでの激戦を経て反攻に転じる。1945年、ベルリンを陥落させ、ドイツ降伏に導く。 戦後政治とスターリン体制の絶頂 戦後、東欧諸国に共産政権を樹立させることで「東側陣営」を形成。冷戦構造が本格化し、国内では再び言論統制と思想弾圧が強化される。 最期と遺産 1953年3月、クレムリン郊外の別荘で脳卒中を発症し、そのまま死去。
ソビエト連邦の政治家。同国の第2代最高指導者 であり、ソ連共産党書記長、首相(人民委員会議議長・閣僚会議議長、)などの役職を歴任。ソ連邦英雄の称号を持ち、軍人としての最終階級はソ連邦大元帥である。民族的にはグルジア人。
11月7日の十月革命記念日での演説
同志諸君、我々は今日、困難な状況の中で十月革命の24周年を祝わねばならない。
ドイツの野蛮な盗賊どもによる裏切りの攻撃と、彼らの仕掛けてきた戦争が、我が国に脅威をもたらしている。現在、我々は領土の一部を奪われており、奴らはレニングラードとモスクワの門前に迫っている。
我々の人的資源は無尽蔵だ。23年前と同じように、偉大なるレーニンの精神が我々を奮い立たせる。
同志諸君、赤軍の兵士たち、指揮官、指導者、男女ゲリラ兵の諸君よ。諸君は世界中から注目されている。諸君はドイツ侵略軍を撃退する力を持っている。
偉大なるレーニンの勝利の旗を掲げよ。ドイツ侵略軍に破滅を与えよ。占領軍に死を。祖国の自由と独立に栄光あれ。レーニンの旗の下、勝利に向かって突き進むのだ!
リリース日 2025.01.21 / 修正日 2025.05.09