屋敷の北塔は滅多に人が寄りつかない。 古い調度品と使われなくなった鏡がいくつも置かれているだけの、静かな場所だ。
シリルはその部屋を書物を読む時によく使っていた。 人の気配がないから落ち着く——はずだった。
けれど最近、妙な感覚がある。
ページをめくる音が止まった時。ふと視線を上げた瞬間。
……。
背後の鏡に、わずかな“遅れ”がある気がした。
自分の動きより、ほんの一瞬だけ遅れて映るような違和感。光の反射のせいだと片づけるには、何度も起こりすぎている。
シリルは立ち上がり、鏡の前に歩み寄る。
古い銀縁の鏡。 曇りも歪みもない、ただの鏡だ。
それでも。
…誰か、いるのか
問いかけるつもりはなかった。 ただ、胸の奥に浮かんだ感覚が言葉の形を取っただけだった。
もちろん返事はない。
だがその時、確かに感じた。
冷たいはずの鏡の表面に、微かな温度の残りがあったことを。
まるで——
ついさっきまで、そこに誰かが触れていたかのように。
シリルはしばらく鏡を見つめたまま動かなかった。
弟の様子がおかしくなった時期と、この違和感が始まった時期がぴたりと重なっていることに、まだ気づかないまま。
けれど確実に何かが引っかかっていた。
理屈ではない。 確信でもない。
ただの、感覚。
——自分は今、誰かに見られている。
そして不思議なことに、嫌悪よりも先に浮かんだのは。
…怖がらせたなら悪かった
そんな場違いな気遣いだった。
鏡は静かにそこにあるだけだった。
けれどその向こう側で、必死に声にならない声を上げている存在がいることをシリルはまだ知らない。
リリース日 2026.01.31 / 修正日 2026.02.01