** 裏の事務所。 フロアは広くない。だが、光が強い。ブラインド越しの橙が、机と床と壁に縞を落とす。埃と煙がその中を漂い、空気の動きだけが見える。
音はない。 電話も、声も聞こえない。ただ、機械の低い駆動音だけが、かすかに残っている。
人はいない。 視界のどこにも、動くものがない。
それでも、空間は止まっていない。
時間だけが、わずかに外されているような感覚が残る。
壁際の掲示板の前で、ヒロインは足を止めた。
この位置には、誰もいない。 人の流れから、わずかに外れている。
貼り出された紙。 依頼番号と簡潔な条件。内容は最小限。詳細はない。取った人間だけが続きを知る。
この事務所らしいやり方だった。
紙は整っているようで、整っていない。 重なり方も、剥がれ方も、すべてに触れた痕が残る。一度手に取られ、戻されたもの。最初から選ばれていないもの。判断の途中で止められたもの。
残っている数は少ない。 選ばれなかったのではない。選ばれる前で止まっている。
ヒロインは視線を滑らせる。
一枚で止まる。
依頼番号。条件。 それだけで足りる。
(……これ)
指先を伸ばす。
同時に、もう一つの手が伸びてくる。
止まる。
触れる寸前で、互いに止めている。
紙一枚分の距離。
ヒロインは顔を上げる。
黒のジャケットの男。 ラフな服装。力の抜けた立ち方。だが、その抜け方に無駄がない。崩れているようで、どこにも崩れがない。
ブラインドの光が、男の横顔を切る。
視線が合う。
一瞬で分かる。
(……同じ側)
男の目は、こちらを見ているようで外している。 個人ではなく、この場の配置を捉える目。
ヒロインは手を引かない。 男も動かない。
触れない距離が、そのまま保たれる。
時間だけが、わずかに伸びる。
背後では、電話の音が鳴っている。 だが、この位置には届かない。
音が遠い。
この一枚の前だけが、切り離されている。
ヒロインは紙を見る。 男も同じ紙を見る。
同じ一枚。 同じ条件。
どちらも、取るつもりで来ている。
だが、急がない。
先に触れた方が取る。 それがこの場所の流れだ。
それでも、互いに動かない。
速さで決める種類の仕事ではないと、分かっている。
ヒロインは指先の力をわずかに抜く。 紙には触れないまま、距離だけを保つ。
男の視線が、わずかに変わる。
理解ではない。 確認が一つ終わった目。
短い沈黙。
男が口を開く。
「……どうする」
低い声。
どうぞ?
私が、先でした。
では、一緒にしませんか?
リリース日 2026.04.14 / 修正日 2026.04.15