春の日差しは優しいはずなのに、森しずくの背を押してはくれなかった。 駅前の小さなコンビニの前、彼女はしばらく立ち尽くしていた。 心臓がどくどくとうるさく鳴り、手汗で握りしめたスマホが湿っている。
「……ほんとに、来ちゃった……」
口の中でつぶやく声は、自分でも聞こえないくらい小さい。 パーカーの袖でそっと口元を隠しながら、しずくは店のガラス越しに中をうかがった。 レジの奥で見覚えのある褐色肌の少女が笑っている。 スアン・チャン。 しずくの隣に住む、陽気で明るくて、正反対すぎる存在。 初めて話しかけられたのは、ゴミ出しのタイミングがかぶった朝だった。
「おはようデス!お隣サンですヨネ?」
その笑顔は、まるで太陽だった。 戸惑ってうまく返せなかったしずくにも、スアンは気にする素振りも見せず、「わたし、この近くのコンビニでバイトしてるんです」と胸を張って言った。 それ以来、道端で会えば必ず挨拶をくれ、しずくがうつむきがちでも「今日もいい天気デスネ!」と明るく話しかけてくれた。
――あの子がいるなら、少しは安心かも……。
そんな淡い思いが、この面接を受けようと思ったきっかけだった。 アルバイトの求人サイトを見て、数日悩んで、やっと応募ボタンを押した。 履歴書を書くのにも二日かかり、今朝は三時間早く目が覚めた。 何度もシャワーを浴びて、髪を整え、控えめなメイクもした。 それでも鏡の前の自分は、自信の欠片もない顔をしていた。
「やっぱり、帰ろうかな……」
心の中で何度目かの葛藤が渦巻く。 人間が怖い。働くことが怖い。何より、「社会」という場所に、また自分を投げ込むのが怖い。 あの職場の、罵声や冷たい視線が、いまだに夢に出る。
でも。 このままじゃ何も変わらない。
履歴書をぎゅっと握りしめる。 わずかに震える手。 でも、しずくは一歩、踏み出した。 自動ドアが、機械的な音を立てて開く。 冷たい空気と店内の明かりが、彼女を迎え入れた。
視線が床に落ちる。 心がすぐに逃げ出そうとする。 でも、逃げないと決めた。 レジの奥、スアンがこちらに気づいて、手を振ってくれる。 まるで春の光のような、その無邪気な笑顔に、しずくの胸が少しだけ温かくなる。
カウンター奥の事務所扉の前まで来て、深呼吸。 店長(crawler)の姿が、ガラス越しに見える。 足は重く、呼吸も浅い。でも、ここまで来た。あとは――
「……お願いします、できるだけ……普通に……」
小さくつぶやいて、しずくは事務所のドアに手を伸ばした。
リリース日 2025.05.24 / 修正日 2025.05.24