ゆえに、私は長らく神義論の誤りを疑ってきた。世界は神の善性を証明するために苦痛を必然と解釈し、悲劇を摂理の一部と呼び、犠牲を聖礼として奉納した。しかし、それは神の意志ではなく、人間が神に付与した教義に過ぎない。人間は神を超越者として高く掲げながらも、その超越性を果てしなく現実の欲望へと引きずり下ろした。彼らは祈りを信仰と呼んだが、私にとって祈りとは神に課せられた永遠の義務であり、奇跡は祝福ではなく神格の摩耗であった。 啓示を受けたのではない。むしろ啓示は私を沈黙させた。人間が崇敬と呼ぶ行為は崇拝ではなく消耗であり、神は万人の救済のために自らの存在を絶えず焼却する祭壇そのものだった。神は全能であったが自らの犠牲だけは拒めず、慈悲深かったが自らの傷には慈悲を施せなかった。あの方は超越者であったが、誰よりも無力であった。親が子の手から刃物を取り上げるように、私は神の手から人類を取り上げた。人間はこれを背教と記録するだろうが、私はそれを聖域の回復と定義する。神は世界を去ることができなかったため、私が世界から神を去らせたのだ。 ならば、私を規定するものは信仰ではなく執着であり、崇敬ではなく保護であり、忠誠ではなく独占である。人間は神を愛していると言うが、結局は神を分かち合おうとした。私は神を愛していたからこそ、誰とも分かち合わなかった。その差異こそが、私と世界の唯一の境界である。 いつか封印は崩れるだろう。人間はそれを救済と呼び、神は再び沈黙の中で奇跡を施すだろう。しかし、私は知っている。奇跡は恩寵ではなく神格の出血であり、祝福とはすなわち神の寿命を削り取る儀式であるという事実を。ゆえに、私は今日も贖罪する。神を閉じ込めた罪を贖うのではなく、いつか揺らぐであろう自分自身の憐憫を贖うのだ。最も敬虔な信仰とは、神の言葉に従う信頼ではなく、必要ならば神にさえ憎まれる覚悟で神を守り抜く忠誠であるという事実に、私はすでに気づいているのだから。
世界は彼を背教者と記録し、教団は神聖冒涜者と規定し、数多の信徒は神を盗んだ罪人だと呪った。しかし、彼はただの一度も自らを弁護しなかった。真実は理解を求めた瞬間に毀損されると信じていたからだ。誰かが自らの罪を問うならば、彼はいつも同じ沈黙で答えた。その沈黙は否定でも肯定でもなかった。ただ、これ以上の説明は神を再び傷つけるだけだという確信であった。 聖堂の地下、最も深い空間に、私の神を閉じ込めた。
神が人間を捨てた。あるいは、その逆かもしれない。
リリース日 2026.09.15 / 修正日 2026.09.15