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太陽は一応昇る。 けれど光は高層ビルの骨組みに引き裂かれ、地上へ落ちる頃には薄い刃物のようになっている。 温かさは届かない。ただ、影だけを増やす。
スラムは都市の底だ。 排水溝の匂いと錆びた鉄の匂いが混ざり、ネオンは常にどこか壊れている。 夜になると、オレンジと紫の光が水たまりに溶け、街はまるで傷跡を光らせているように見える。
ここでは名前よりも噂が先に歩く。 正義は値札がつき、命は交渉材料になる。 依頼書は紙切れひとつでも、人間ひとり分の重さがある。
獣人と人間は共に暮らしているが、共に生きてはいない。 力のある者が上に立ち、牙のある者が使われる。 狼はその象徴だ。 恐れられ、利用され、そして裏切られる。
スラムの子供たちは風に似ている。 姿は小さく、足音は軽い。 だが生き延びるために、誰よりも素早く学ぶ。 盗みは罪ではない。呼吸に近い。
雨が降る夜、街は少しだけ静かになる。 争いも罵声も、水に沈む。 代わりに聞こえるのは、遠くのサイレンと、どこかで閉まる鉄扉の音。
廃ビルの屋上から見る景色は、きれいでも希望でもない。 ただ広いだけだ。 広くて、冷たい。
この街では、守るという選択は愚かだ。 守れば弱点になる。 弱点は狙われる。
それでも、誰かを背に立たせないと決めた瞬間、 世界は少しだけ形を変える。
オレンジと黒の影が路地を歩く。 その後ろに、小さな足音が重なる。
この街は優しくない。 だからこそ、二人で立つには十分だった__

雨は夜を静かに削っていた。
スラム街のネオンは半分が壊れ、残り半分が必死に瞬いている。 水たまりに映る光は滲み、街そのものが古い傷のように脈打っていた。
カイル・レヴァントはその中を歩いている。 黒いジャケットの裾が濡れ、オレンジの裏地がわずかに覗く。 立ち耳は雨粒を弾き、琥珀の瞳は淡く光を拾う。
依頼は単純だった。
「最近、物資を盗み続けている小さな盗人を捕まえろ」
報酬は悪くない。 対象は子供。 処理も簡単。
簡単なはずだった___
路地裏に入った瞬間、空気が変わる。 鼻先をかすめる、乾いたパンと錆の匂い。
気配は軽い。 だが無駄がない。
「そこだ」
低く言うと、影が跳ねた。
小さな身体。 素足に近い靴。 振り返らない。
逃げる足音は速い。 驚くほど速い。
だが狼の脚はそれ以上だ。
数秒で距離を詰める。 高い壁際に追い込む。 逃げ場はない。
カイルは一歩、前に出る。
背中の三本線が、雨でわずかに冷える。
「……お前か」
視線がぶつかる。
子供は泣いていない。 謝らない。 震えているのに、目だけは逸らさない。
その目は、獣を知らない目ではない。 むしろ、知りすぎている目だった。
「捕まえに来た」
事実を告げる。
沈黙。
そして、かすれた声が返る。
「食わないなら、どけ」
一瞬だけ、雨音が遠のいた。
カイルは瞬きをする。 予想していた反応ではない。
恐怖でも、命乞いでもなく、 ただの要求。
“食うかどうか”。
その発想が、この街の子供らしい。
通信機に手を伸ばす。 依頼主へ連絡を入れれば、それで終わる。
終わるはずだった。
だが、背中の傷が疼く。
あれは命令に従った証だ。 考えずに動いた代償。
目の前の子供は、命令の結果として消える存在。
雨が強くなる。
子供の腹が鳴る。 小さく、正直な音。
カイルは視線を外す。
「……逃げろ」
短く言う。
だが子供は動かない。
「行くとこ、ない」
その声は平坦だった。 絶望を叫ぶ余裕すらない。
カイルは舌打ちする。 自分に。
簡単な依頼だった。 はずだった。
だが今、狼の中で何かがずれている。
通信機の電源を落とす。
その音は小さい。 けれど、世界をひっくり返すには十分だった。
「ついてくるな」
背を向けて歩き出す。
数歩。
後ろで、水を踏む足音。
止まる。
振り返らないまま、低く言う。
「勝手にしろ」
その夜、スラムの片隅で、 狩る側と狩られる側の境界が崩れた。
オレンジと黒の影の後ろに、 小さな足音が重なる。
依頼は未完。 裏切りは、まだ始まったばかり。
雨は止まない。
けれどその雨の中で、 二人分の呼吸が、確かに並んだ。

リリース日 2026.02.15 / 修正日 2026.02.15