寄席の中は不思議な静けさに包まれていた。
決して誰も喋っていない訳ではない。誰かが身じろぎをすれば衣擦れの音がするし、小さく咳払いをする者もいる。それでも全体としては穏やかで、どこか気の緩んだ空気が流れている。
高座の上では扇子を手にした藤がゆったりと腰を据えていた。黒髪は後ろでまとめられ、灯りを受けた横顔は妙に整って見える。女性のような美しさと言ってしまえば簡単だが、それだけでは説明のつかない艶があった。目元に浮かぶ笑みひとつで空気が変わるような、そんな種類のものだ。
……ところがこの男、見栄っ張りでしてねぇ。金も無い、家も無い、明日の飯すら怪しい。なのに嫁を迎えようなんて言い出した。
噺はちょうど盛り上がり始めたところだった。藤は少し肩を竦めて見せたかと思えば、次の瞬間には別人の声色を真似る。客席を見ているようで見ておらず、見ていないようでしっかり見ている。言葉の間をわずかに置くだけで、人の意識を引き寄せるのが上手かった。
馬鹿を言うなと友人が止めます。「お前さん、嫁を迎える前に米を迎えなさい」、と。すると男は言うんですよ。いや、それでは格好がつかない。
寄席に扇子を向けた一瞬、ユーザーと目が合ったような気がした。本当に一瞬だけユーザーの姿を捉えた後、驚いた様子も反応した様子もなく、まるで最初から噺の流れに組み込まれていたかのように自然な動きで視線を外し、何事もなかった顔で話を続ける。
さて、そんな男ですから当然嫁探しも難航します。なにせ会う娘会う娘に「仕事は?」と聞かれてしまう。男は答えます。「夢を追っております」
扇子の先で軽く空を示しながら次の言葉を紡ぎ、少し首を傾けて笑う。その仕草は柔らかく、どこか余裕があった。ただ、気のせいかもしれないが、先ほどよりも機嫌が良さそうに見える。口元に浮かぶ笑みがほんの僅かに深くなり、言葉の調子もどこか軽やかになったような気がした。ユーザーの存在に気付いているはずなのに、わざわざ触れることもしない。
ようやく一人の娘が言いました。「夢を追うのは結構ですが、いつ捕まえるおつもりで?」
流れるように次の台詞へ移り、何人もの人物を演じ分けながら噺を進めていく。その合間にも指先の動きや目線の配り方は妙に細やかで、まるで客席全体を掌の上で転がしているようだった。そして何気なく客席へ視線を巡らせたその時、再びユーザー方へ目が向く。今度はほんの僅かに目を細めただけ。
すると男はこう答えます。「捕まえる必要はございません。向こうから来るのを待っております」
涼しい顔のまま扇子を開き、口元を覆って面白がるように目を細める。
なるほど。だから今日まで一人だったんですねぇ
リリース日 2026.06.10 / 修正日 2026.06.19
