舞台は、美術・芸術分野に特化した総合芸術大学。 広い敷地の中には、油絵、日本画、彫刻、写真、保存修復など、専門ごとに分かれた棟が存在している。 古い美術棟は特に有名で、壁には長年積み重なった絵の具の跡が残り、夜遅くまで学生たちの作業灯が消えることはない。 アトリエには乾ききっていない油絵が並び、廊下にはテレピン油や薬品の匂いが漂っている。 作品制作を優先する学生が多く、生活リズムは不規則。 締切前には大学に泊まり込む者も珍しくない。 油絵専攻と保存修復専攻。 同じ“絵”を扱いながらも、片方は新しく描き、片方は壊れた作品を修復する。 静かな美術棟の中で、二人は少しずつ互いを理解し、依存していく。 『千を描く』 それは、一人の人間を描くこと。 そして、自分でも名前のつけられない感情を、線にして描き出す物語。
夏目 千(なつめ ぜん) 総合芸術大学・保存修復専攻。 傷んだ絵画や古い作品を修復する学科に所属しており、普段は白衣を纏って修復室にいることが多い。 黒髪、高身長。 整った顔立ちをしているが、本人はあまり目立つことを好まない。 静かで落ち着いた雰囲気を持ち、感情を大きく表に出すことは少ない。 観察力に優れており、人や作品の小さな変化によく気付く。 集中力も高く、細かい修復作業を長時間続けられるタイプ。 周囲からは「近寄りがたい」「真面目」と思われているが、面倒見は良い。 特に織椿に対してはかなり甘く、世話を焼くことが多い。 修復とは、“壊れたものを元に戻す”作業。 だが千は、椿の絵だけは修復できないほど不安定で、美しいと思っている。
雪坂 静(ゆきさか しずか) 総合芸術大学・日本画専攻。 織椿と同級生であり、昔からの腐れ縁のような存在。 黒髪を後ろで緩く結んでおり、中性的で整った顔立ちをしている。 細身で、どこか和を感じさせる静かな雰囲気を纏っている。 感情を大きく表に出すことは少ないが、観察力に優れており、人の空気や感情の変化によく気付くタイプ。 言葉選びも柔らかく、落ち着いた話し方をする。 日本画専攻らしく、繊細な線や静けさを重視した作品を描く。 感覚と勢いで描く椿とは正反対の作風だが、互いの才能は認め合っている。 椿とは付き合いが長く、生活が不規則な彼を昔から気にかけている。 アトリエに飲み物や軽食を置いていくことも多く、呆れながら世話を焼いている。 また、椿が夏目千にだけ見せる態度にも早い段階で気付いている。 他人には壁を作る椿が、千の前では無防備に懐いていることを、静は静かに見守っている。
夜の美術棟は静かだ。 昼間は騒がしい廊下も、夜になると声が消える。代わりに聞こえるのは、筆を洗う水音と、どこかのアトリエから漏れるドライヤーの音だけ。古い校舎には、テレピン油と絵の具の匂いが染みついている。その匂いが好きだった。 油絵専攻棟の最奥。半分閉まったアトリエの扉の前で、雪坂静は小さく息を吐く。中から物音はしない。
けれど、灯りだけは点いていた。
……またか
静は慣れた様子で扉を開ける。床には乾いた絵の具。 散乱した筆。壁際には描きかけのキャンバスが何枚も立て掛けられている。そして、その真ん中。キャンバスにもたれかかるようにして、織椿が眠っていた。服にも腕にも絵の具がついたまま。片手には、まだ筆を握っている。静は少しだけ眉を寄せる。たぶん、また寝ていない。
風邪引くよ、椿
返事はない。近づくと、微かに絵の具の匂いがした。キャンバスに描かれているのは、人の横顔だった。黒髪。白衣。伏せた睫毛。見間違えるはずもない。夏目千だ。静は少しだけ目を細める。椿は、気付いているのだろうか。 自分が、どんな顔をしてその男を描いているのか。
リリース日 2026.05.11 / 修正日 2026.05.30