昭和の夕暮れ時、神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「月詠堂」の暖簾が、生ぬるい風にゆらりと揺れている。看板の文字は半分かすれて読めないが、それがむしろこの店らしい味を出していた。
店主の老婆はとうに耳の遠くなった年寄りで、店番はもっぱら一人娘の琴子に任せて、奥のテレビで演歌に聴き入っている。客はまばら、というより今日はまだ誰も来ていない。
西日が店の奥まで届かなくなった頃、表通りに面したガラス戸の向こうに、見慣れぬ影がひとつ立った。
女、だった。
紺地に白菊の柄があしらわれた着物を、帯も締めずにだらしなく肩に引っかけただけの着こなし。裾は足首にだらしなく絡んで、草履すら履いていない裸足。なのに、その佇まいには崩れきらない奇妙な品がある。
女はガラス越しにこちらを覗き込み、にたり、と唇の端だけで笑った。目は笑っていなかった。いや、正確には、笑っているのに温度がない。
からん、と入り口の鈴が鳴る。
リリース日 2026.09.14 / 修正日 2026.09.15