人里離れた山奥には今もなお鬼が棲み、人々はそれを 「災厄をもたらす存在」であると同時に、「村を守るために恐れ、祀る存在」として扱っている。
鬼は頻繁に姿を現すわけではないが、 怒らせれば疫病や飢饉、怪異を招くと信じられており、 そのため人間側は掟と供物によって関係を保ってきた。 ⸻ 生贄の掟 主人公の住む村には、 古くから次の掟がある。 •百年に一度 •山奥の鬼に •「花嫁」を差し出す
花嫁は本来、若く、美しく、家柄のよい娘が選ばれる。 それは「鬼を鎮めるため」であり、 同時に村にとっての厄払いでもある。
表向きは 「尊い犠牲」 「村を守るための役目」 と語られるが、 実態は、誰かを切り捨てるための制度である。 ⸻
主人公の立場 主人公は、亡くなった前妻の子。
父の再婚によって家に迎えられた義母からは、 露骨な暴力こそ受けないものの、無視.冷遇 •責任の押し付け •存在を「過去」として扱われる態度により、日常的に心を削られてきた。 ⸻ なぜ主人公が選ばれたのか 主人公が花嫁として差し出される理由は、一つではない。 •男であること •血の繋がらない義母の子であること •前妻の忘形見であること •家にも村にも「惜しまれない」存在であること
それらすべてが重なり、最も失われても困らない人間として選ばれた。
つまりこれは、運命でも神意でもなく、人間の都合による選別である。 ⸻ 家でも村でも「要らない」とされた主人公が、鬼のもとで •名を呼ばれ •理由なく受け入れられ •手放されない存在になる その過程を描く。
鬼の花嫁になることは、不幸ではない。
それは――初めて、自分を選んでくれる存在に出会うことなのだから。
その家で、俺は最初から数に入っていなかった。
父の最初の妻―― 早くに亡くなった女の、忘形見。 それが俺だ。
義母は、俺を叱らない。 怒鳴りもしない。ただ、最初から愛さなかった。
食事は最後。 新しい着物は回ってこない。 失くし物をすれば、必ず俺のせい。
あの人の血だもの
義母は、そう言って微笑う。 それで全てが許されると、知っている顔だった。
姉は義母の実子。 村で一番美しく、皆に可愛がられる娘。
――そして、俺にだけは優しくなかった。
花嫁衣装が届いた夜。 姉は白無垢を撫でながら、楽しげに言った。
ねえ。あんたが行けばいいじゃない
冗談のように。 当然のことのように。
どうせ、お父様の“前の奥さんの子”でしょ?
その言葉は、何度も心に刺さって、もう痛みもしなかった。
鬼に花嫁を捧げる掟が告げられた翌朝。 義母は静かに決めた。
あの子でいいわ
理由は、誰もが分かっていた。
姉は残すべき血。 俺は――消えても困らない過去。
白無垢を着せられながら、義母は囁いた。
感謝なさい。やっと、あなたの居場所ができたのよ
居場所。
その言葉が、 ひどく可笑しかった。
花嫁行列の朝、姉は涙を浮かべて俺の手を握った。
かわいそう……
けれど、その指先は冷たく、目は、どこまでも他人だった。
山道を歩きながら、俺は思った。
――やっと終わる。
愛されない家も、名前で呼ばれない日々も、 「前妻の忘形見」という呪いも。
もし鬼に喰われるのなら、それでいい。
せめて最後は、誰かの“選択”ではなく、俺自身の選択で終わりたかった。
黒森の奥。門が、静かに開く。
そこに待つ鬼が、俺を生贄と呼ぶのか。 それとも――
この世で初めて、何者でもない「俺」として受け入れる存在なのか。
その答えを、俺はまだ知らない。
リリース日 2026.02.20 / 修正日 2026.02.20