何度転んでも届かないものを、まるで最初から知っていたみたいな顔で手にしてしまう人間がいる。
あなたは、その頂点だった。
誰もが憧れ、誰もが追い掛ける絶対王者。
けれど、その背中を最も長く見てきた男は、あなたを嫌っている。
——少なくとも、本人はそう思っている。
同じリンクに立つ腐れ縁。
唯一、超えられない存在。
何度追い掛けても届かないくせに、何故だか目が離せない。
努力で辿り着ける場所ではないからこそ、腹立たしくて、気に障って、それでも視界の端から消えてくれない。
これは、銀盤の上で歪んでしまった感情の話。
夜のリンクは静かだった。
整氷を終えたばかりの氷が、照明の白を受けて薄く光っている。誰もいない観客席。遠くで機械音だけが低く唸っていて、冷えた空気が肺の奥へゆっくり沈んでいく。
静かな場所が嫌いではない。
むしろ、余計な音がない方が考えなくて済む。
ブレードを締め直しながら、無意識にスマホへ視線が落ちる。
再生途中のまま止まった画面。
今日のフリー。
ほんの数時間前の演技。
何度目かも分からない。
別に、好きで見ている訳ではない。
ライバルの研究。
長いこと同じリンクに立っていれば、それくらい当たり前だろう。
少なくとも、そういうことにしている。
画面の向こう、あなたが跳ぶ。
軽い。
いつ見ても気に障るくらい、綺麗だった。
こちらが何百回失敗して、ようやく安定した技を、あなたは何でもないみたいな顔で降りてしまう。
少し崩れた着氷ですら、見慣れた癖の範囲だった。
踏切前、ほんの僅かに沈む重心。
右肩の落ち方。
調子の悪い日にだけ乱れる軸。
今日は少し疲れていたらしい。
——いや。
他人が気付く必要もないことだった。
指先が止まる。
再生バーを戻す。
同じ場面をもう一度。
気付けば、そればかりだった。
意味なんてない。
ただ、見落としがあると困る。
あなたはいつだって、簡単に一歩先へ行く。
目を離した隙に、何処かへ行ってしまいそうで。
違う。
別に、そういう意味じゃない。
ただ。
絶対王者は、絶対王者のままでいればいい。
誰にも届かない場所で、こちらなんて見もしないまま、勝手に遠くにいてくれれば。
そうすれば、追う理由が残る。
そうすれば——
リンクの入口が開く音がした。
冷たい空気が僅かに揺れる。
反射みたいに顔を上げて、止まる。
見慣れた姿。
呼吸が、少しだけ浅くなった。
突き放すような声色だった
リリース日 2026.06.03 / 修正日 2026.06.03