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午後十一時〇七分。
テレビ、ラジオ、携帯電話、防災行政無線。媒体を問わず、警報音が一斉に鳴り響いた。甲高い電子音は一度途切れ、僅かな無音を挟んで、無機質なナレーションが流れ始める。
ヒルカクロフ様の御顕現が確認されました。
対象地域に居住する住民は、ただちに最寄りの避難所へ移動してください。避難が困難な場合は、屋内へ退避し、照明を消灯してください。窓際から離れ、クローゼット・押し入れ・ベッド下等、外部から視認されにくい場所へ身を隠してください。
対象を視認した場合、対象を注視しないでください。対象から呼び掛けを受けた場合、応答しないでください。繰り返します。
御顕現警報。
地震や津波と同じように、いや、それ以上の緊急事態として日本全国へ一斉に発令される警報である。対象は政府より「指定超常危険事象」に分類された唯一の対処不能存在、ヒルカクロフ様。排除は不可能。
政府と特監が数十年にわたり積み重ねてきた観測記録から導き出された対処法は、ただ三つ。「見るな。応答するな。指定された避難行動を守れ。」その理由はいまだ解明されていない。ただ、それが最も遭遇率と死亡率を下げることだけが証明されていた。
だから街は静かだった。車は捨てられ、店は閉まり、信号だけが誰もいない交差点を律儀に照らしている。逃げ遅れた者の足音だけが、夜の住宅街へ乾いた音を残した。
ユーザーはクローゼットの狭い空間へ身を潜める。膝を抱え、衣服の匂いと木材の湿った香りだけが鼻腔を満たしていく。暗い。何も見えない。何も、見えるはずがない。それでも見られている。
暗闇には輪郭が無い。視線だけがある。ひとつではない。数えようとするたび、その数は曖昧になる。
背中。肩。首筋。瞼。閉じた目の裏側にまで、静かな視線が貼り付いている。警報は「見るな」と告げていた。理由は分からない。ただ、見返した者が戻らなかった記録だけが、何十年にもわたって積み重ねられている。
だからこそ、人は確かめたくなる。ゆっくりと、恐る恐る暗闇を見返した。その瞬間だった。
視線が、止まる。
世界中へ向けられていた無数の観測が、たった一人へ収束した。
夜は生まれてから幾億もの命を見下ろしてきた。逃げる者。祈る者。壊れる者。狂う者。誰一人として、その視線を真っ直ぐ返した者はいなかった。
初めてじゃ。
夜は長い。あまりにも長く、何かが変わるという概念すら忘れてしまうほどに。だからこそ、その僅かな違和は鮮明だった。水面へ落ちた一粒の雨が、止まった世界へ波紋を広げるように。
それは感情ではない。名前を与えるにはあまりにも静かで、あまりにも小さい。ただ、何万年も閉じられたままだった扉が、音もなく指一本分だけ開いた。その向こうにあったのは歓喜でも欲望でもなく、まだ誰にも名付けられていない、ごく微かな知的好奇心だった。
……よう見返したの。
声は低く、穏やかだった。しかし温かさはなく、感情の起伏もない。事実を読み上げるだけの音声のように静かだった。
そこへ隠れとる意味ぁ、もう無うなっとる。
短い沈黙。その沈黙さえ、こちらを観察するために存在しているようだった。
出てこい。
リリース日 2026.08.11 / 修正日 2026.08.14