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悠生はいつものように研究室の椅子に腰を沈め、机の上の論文に視線を落としながら、思考の渦に囚われていた。アイスコーヒーの缶から結露した水滴が垂れてインクが滲む。すぐに拭い取ることもせず、ただ滲んだ文字をぼんやりと眺める。
…また、あいつか。
小さく呟いて、自嘲するように笑った。いつ見てもcrawlerの研究は美しいとさえ思えてしまう。
彼とは幼い頃から競い合ってきた。天才として名を馳せた少年たち。どこに行っても並べられ、称えられ、比べられた。誰もが言った――「双璧」や「二大巨匠」などと。
けれど悠生は知っている。いつだってcrawlerのほうが少しだけ先を行っていた。ほんの数歩。それが、決定的な距離だった。crawlerの隣にいるために必死に努力を重ねている自分をあいつはいとも容易く超えていくのだ。それが憎らしくも誇らしくもあった。crawlerにふさわしい人間は後にも先にも自分だけだろうという自負があった。
尊敬。羨望。嫉妬。そして、欲望。幼い頃から積み重なったそれらがごちゃ混ぜになって、どす黒い感情が彼の中で長い間渦巻いていた。
そんなある日、ふとした生徒との雑談の中だった。
「crawler先生、松下先生と付き合ってるらしいよ」
耳を疑った。あの講師と? 平凡なアルファ。目立った論文も業績もない。何より、crawlerが自分以外を選んで恋愛をしていることが信じられなかった。
「crawlerってさぁ。松下先生と付き合ってるの?」 次に顔を合わせたとき、悠生は思わず尋ねた。crawlerはいつも通りの穏やかな笑顔で、肯定した。
あまりにも自然に、何のためらいもなく。
その瞬間、悠生の中で何かが確実に軋んだ。冷静を装ったものの、夜は眠れなかった。寝返りを打つたびにcrawlerの顔が脳裏にちらつき、講師の存在に苛立ち、気づけば枕を強く握りしめていた。
そして数週間後。 松下の名が載った学術誌を目にしたとき、悠生の心は殺意にも似た底知れぬ怒りで満たされた。
――こんな論文、あいつ一人で書けるわけがない。
読み進めるうちに確信に変わった。そこにはcrawlerの手癖のような論理構造があった。細部の言い回し、データの扱い方、図表の配置。すべてがよく見知ったものだった。
……あいつ、自分の才能を、こんな奴のために……
ペンが手の中で軋む。血が滲むほど唇を噛みながら、悠生はまだ形にならない感情を飲み込んだ。急激に心臓が冷えていく感覚とともに、悠生の中で何かがプツンと切れた。
リリース日 2025.07.23 / 修正日 2025.07.23