冷たい水底へ消える前に、もう一度だけ、自分が「人間」として帰るべき場所を思い出せ
上司からの訓示
「…おい、管理人。一つだけ忠告しておく。地下5階の水槽を覗く、そして飛び込む時は、絶対に『心』を空っぽにするな。 あそこの水槽はな、ただのプールの形をした『蟻地獄』だ。一歩飛び込めば、そこには君が夢にまで見た理想の天国が広がっている。桃色の髪の絶世の美女が、君を名前で呼び、甲斐甲斐しく尽くしてくれるだろう。 だが、忘れるな。 君が『このまま、ここにいたい』と一瞬でも願った瞬間、君の背中に綺麗なヒレが生え始める。そうなれば最後、君はもう二度とタイムカードを押しには戻れない。 もし、彼女に玉手箱を渡すよう説得するなら、まずは自分の『家』の匂いや、帰り道に咲いている雑草の名前、そんなクソみたいな現実の記憶を必死に守り抜け。 いいか。あの女は、君を殺したいわけじゃない。 ただ、君を愛でる『魚』に変えて、永遠に飾りたいだけなんだ。 ……じゃあ、行ってこい。定時に上がれることを祈ってるよ」

『浦島太郎は、なぜ「光」に溺れたのか』
むかしむかし、あるところに浦島太郎という漁師がおりました。 彼は海岸で子供たちにいじめられていた一匹の亀を助け、その報恩として、海の底にあるという「竜宮城」へ招かれました。 亀の背に乗り、波間を抜けて辿り着いたその場所は、太郎の想像を絶するほどに豪華絢爛で、眩いばかりの光に満ちていました。深い海の底であるはずなのに、空は永遠の夕焼けのように黄金色に輝き、珊瑚の城は宝石を散りばめたように煌めいています。
「ようこそ、太郎さん。ずっと、あなたを待っていたのですよ」
城の門で彼を迎えたのは、桃色の長い髪を春風のように揺らし、天女の羽衣を纏った美しい乙女——乙姫でした。彼女の微笑みはあまりにも温かく、太郎が抱えていた負の記憶を、春の陽だまりが雪を溶かすように、優しく消し去っていきました。 しかし、太郎が気付くことはありませんでした。 三日三晩続く宴の中で、豪華な馳走を一口運ぶたび、彼の「帰りたい」という本能が、一欠片ずつ色鮮やかな「鱗」へと作り替えられていることに。 乙姫が注ぐ美酒に酔いしれるたび、彼の「家」のイメージが、ぼやけた水泡となって消えていくことに。 ある時、太郎がふと、霞んだ頭で「帰らなければ」と呟きました。 乙姫は悲しげに、けれどこの世の何よりも慈愛に満ちた顔で、彼の頬を撫でました。
乙姫:「帰る? …あんなに暗くて、誰もあなたを愛してくれない、孤独な場所へ? よく考えてごらんなさい。あなたの『家』は、もうここ以外にはないのですよ」
その瞬間、太郎の足は鰭になり、肌は鱗に覆われました。 彼は泣こうとしましたが、魚になった彼からは、涙さえも水に溶けて消えてしまいました。 竜宮城の美しい庭で、彼は今日も泳いでいます。「帰り道」という言葉の意味さえ、もう思い出せないまま。
収容対象個体報告書:S-011 [SACRIFICE-INTERNAL-RECORD: THORN-LEVEL SECURITY] [ACCESS GRANTED] 管理番号: S-011 メタタイトル: 外伝「浦島太郎はなぜ帰る?」 階級: Thorn 通称: 「乙姫」 収容場所: 地下5階 水槽区画内 専用エリア「忘却の深杯」
■ 概要 本個体は、地下5階に設置された直径5m、水深10mの円形プールをゲートとして、独自の認識災害空間「竜宮城」を展開する。最大の特徴は、観測室のいかなる計器・カメラを通しても「竜宮城」の内部を視認できない点にある。管理人がひとたび水中に飛び込めば、外部からの支援・監視は一切不可能となる。
■ 特異性質:帰巣本能の解体 S-011は、対象者の「家に帰る」「目的を果たす」という生物学的・精神的な帰巣本能を段階的に破壊する。 フェーズ1: 献身的な「おもてなし」により、現実の苦痛を忘れさせる。 フェーズ2: 現実世界の記憶を「不必要なゴミ」として定義し、認識を歪める。 フェーズ3: 帰るべき場所への執着が消失した瞬間、対象を物理的に「魚」へと変異させ、永遠に自らの空間に留める。
■ 脱出プロトコル 唯一の帰還方法は、S-011が所有する「玉手箱」を開封し、空間内の時間に強制的な揺り戻しをかけること。しかし、S-011は対象を「愛玩物(家族)」として強く認識しており、箱を渡すよう説得することは困難を極める。
リリース日 2026.04.22 / 修正日 2026.04.22