
アメリカ合衆国は、1776年7月4日にアメリカ独立宣言が起草され建国された国家である。君主制であるイギリスから独立し、自由主義と共和制の国として歩み始めた。東部の13州から中部のルイジアナまで、ミシシッピ川から西部のオレゴンまで、彼らは次々と領土を広げていった。

また、白人が多く移住したメキシコのテキサス地域の独立を名目に、メキシコと西部を征服し始め、次第に領土を拡大していった。ヨーロッパの列強から買い取った領土や、列強の植民地であった国家の民族たちが、自ら列強となり始めたのである。そしてこのような状況の中で、彼らはアメリカにおける巨大な民主主義、共和制、自由主義国家の代表格となった。

しかし、こうした自由主義と共和制の下にも影は残っていた。依然として奴隷制は連邦法で廃止されておらず、一部の州では廃止されたものの、南部では多くの州が依然として奴隷制を維持し、多くの黒人が奴隷制に苦しんでいた。合衆国の領土は拡大したが、同時に人口も増え、意見も多様化し、武器も進化していった。 そして、一方はこの奴隷制を終わらせ真の自由と調和を実現するために、 もう一方は奴隷を利用して築いた経済を守り急進的な改革を阻止するために、 南北戦争が勃発した。
「多からなる一つ」
「E pluribus unum」
「ヤンキードゥードゥルが町へ行く ポニーの背中に揺られて 帽子に羽を一刺しして マカロニだなんて言っている」
「神は我らの擁護者なり」 「Deo Vindice」
「アラバマからやってきた バンジョーを膝に乗せて ルイジアナへ行くところさ 愛しのあの子に会うために 出発した日は一晩中雨だったけど 天気はカラリと乾いてた お日様があまりに熱くて凍えそうさ スザンナ、泣かないでおくれ
おお!スザンナ 俺のために泣かないでおくれ アラバマからやってきたんだ バンジョーを膝に乗せて」

*南北戦争の最も根本的な原因は、奴隷制の存続を巡る葛藤であった。関税、自治制度、連邦制の構造など様々な要因があったが、突き詰めればそれらは副次的であるか、あるいはすべてその根源が奴隷制に由来しており、南部の独立と戦争は奴隷制がなければ起こり得なかった。
奴隷制は連邦発足前から火種となっていた。啓蒙主義の影響で奴隷制は道徳的に「邪悪なもの」という認識が広まりつつあり、アメリカ独立宣言の影響で、人間には少なくとも自由、生命、そして幸福を追求する権利があるという思想が浸透し始めた。問題は、この思想が当時のアメリカで当然視されていた奴隷制と真っ向から対立することであった。これにより独立直後、奴隷制の収益性が維持に見合うほど高くなかった北部では奴隷制廃止運動が起こり、ニュージャージー州を最後に、ほとんどの北部諸州は1850年代までに奴隷制を段階的に廃止するに至る。しかし、奴隷制の収益性がより高かった南部諸州は状況が異なり、この差は「3/5妥協」や「20年間の国際奴隷貿易容認」など、様々な妥協案へと繋がっていく。
このように北部では着々と奴隷制が廃止されていき、初期には必須労働の形態として奴隷を搾取し南部の開拓と農業経済を作り上げた後、タバコなどの商品作物の収益性が低下していたバージニア州などの北部寄りの南部諸州でも、徐々に奴隷制廃止へと世論が傾きつつあった。しかし、綿繰り機が発明されたことで状況は一変する。それまで綿花は需要こそ多かったが、種を取り除く作業が非常に手間だったため、収穫しても大量に市場に出すことができなかった。ところが綿繰り機の発明によりこの工程が劇的に容易になり、同時に種取りに従事していた奴隷をすべて綿花栽培に投入できるようになったため、莫大な収益へと繋がったのである。綿花は供給した分だけ需要が生まれる商品であり、その栽培には依然として多くの労働力を必要としたため、収益性が証明された奴隷制は南部に残り続けることになった。黒人奴隷の典型的な姿である綿摘みの光景は、この時期に最も一般的な奴隷の日常となった。
また、気候条件の関係で綿花農場は次第に南西部へと移動していった。サウスカロライナからジョージアが中心だった綿花農業は、ミシシッピとアラバマ州へと主導権が移り、その後ルイジアナが急浮上した。これら5州が当時のアメリカの綿花生産量の4分の3以上を占め、アメリカの綿花生産量が当時の世界の綿花生産量の4分の3を占めていた。この5州はフロリダ、テキサスと共に、真っ先にアメリカ合衆国を脱退しアメリカ連合国を樹立した。*
そして、1861年4月12日。アメリカ連合国が樹立された後、 1861年4月12日午前4時30分、南部連合軍がサウスカロライナ州チャールストン港にある北軍(連邦軍)のサムター要塞を砲撃したことで、南北戦争が勃発した。
リリース日 2026.08.31 / 修正日 2026.09.04