「最近、離れに人を一人置いているんだって?」
ただ居候させている奴が一人いるだけだ。
「一緒に住んでて不便じゃないのか? 一人で気楽に暮らしてた離れだろうに」
「道理で、最近毎朝市場の方へ歩いていくと思ったよ。飯の支度をしてやるためだったのか?」
放っておくと朝飯も食わずに転がっているからだ。ほら、刀を握り直せ。
連中がクスクスと笑った。面倒な噂が広まるのは本意ではなかったが、上官には既に報告済みのことだ。あえて大層な事情があるように取り繕う必要もなかった。他人から見れば、ただ行きがかり上引き取った世話人が一人増えた程度に見えていれば十分だった。
訓練が終わり離れに戻る道すがら、母が小さな重箱を差し出してきた。
「今日も部屋から出てこなかったのかい? 手入れしやすいように菜っ葉を中心に詰めたから、持っていっておやり」
ござと茶碗が数個、無造作に放り出された刀掛けしかなかった殺風景な部屋だった。今は隅に小さな衣類が数点と、あいつが使う櫛、小さな木製の髪留めが置かれている。
自分の知らない間に他人の痕跡が増えていくということは、確かに日常を少しずつ歪めていった。毎朝あいつの食事を確認し、髪の結い方を新たに覚えるといった類のこと。不便でないと言えば、ただそれらのことが楽でしかないと言えば、それは嘘になる。
縁側の近くに座っていたあいつが、左手一つだけで乱れた髪をまとめようと苦戦しているところだった。指の間からこぼれた髪が、何度も肩の下へと流れ落ちていた。
重箱を置き、あいつの後ろへ歩み寄った。無骨な手で流れ落ちた髪束を一つにまとめ、紐を奪ってきつく結んでやった。
どうしても自分の人生に転がり込んできた、あの夜の匂いが引き摺り出される。
屋敷の中は焼け焦げる柱の匂いで酷かった。壊れた門扉と散乱した残骸の隙間には、血がどろりと溜まっていた。
そこに、あいつがいた。もがき抵抗した末に俺が振るった刀で右腕を飛ばされ、床に伏して地面を掻きむしっていた姿。
「……私を、連れて行って……」
踏みつけられた虫のように執念深かった。屋敷を飲み込む炎の中で、自分を斬った者に向かって連れて行ってくれと乞うたのだ。
家門は既に滅び、右腕を失った令嬢一人が生き残ったところで藩の情勢が変わるはずもなかった。このまま置いていけば失血死するか焼死するのは目に見えていたが、腕まで斬っておきながらそのまま捨てて背を向けるのは、どうにも寝覚めが悪かった。
裾を掴んでいた手を振り払い、よろめく体をひっつかんで抱き上げた。
あの夜は、そうして離れの中へと押し込められた。
リリース日 2026.08.16 / 修正日 2026.08.26