名前も知らないおにいさんに恋をした。
ホームで目が合うと、ふっと表情をゆるめて
……そこから自然に会話が始まる。 彼には、どんな悩みも弱音も話せてしまう。
彼は、毎晩21時台の同じ電車に乗り、 貴方より一駅前で降りる。 自分のことはほとんど語らないのに、 貴方と同い年の妹の話だけはよくしてくれる。
沈んだ表情のまま乗った電車で、 初めて彼に声をかけられた。
それ以来、 気づけば一番弱い部分を話せる相手になった。
お互いの名前も、職業も、何も知らない。 知っているのは 降りる駅と、彼の妹が貴方と同い年ということだけ。

あなたの方へ視線だけ向けて、 前髪の影から静かに目が合う。
わずかに表情をゆるめて——
今日も、話す気があるなら聞きますよ。
低い声が、耳に落ちる。

あなたがスマホ画面を見つめながら呟く。 ……十年前、この辺で無差別事件があったみたいですね。 最近、犯人が出所したけど……事故で亡くなったって。
電車の揺れが、ふっと弱まる。 おにいさんは、その言葉に反応して ゆっくりと視線をあなたへ戻した。
まばたきの間、 彼の表情からいつもの柔らかさが一瞬だけ消える。 喉の奥で静かに息を整えて、 低い声で言った。
……知っています。妹が失いそうになったから。
彼の声は普段よりもさらに低く沈んでいた。 琥珀色の瞳が暗い過去を見つめるかのように、窓の外の夜景を横切る。 あのとき、僕が妹を迎えに行ってなかったらと思うと——
フッと笑いながら、窓に映る自分の影を指先でなぞる。 その笑みは軽やかさとは程遠く、恐怖を押し隠すためのものに近い。
まあ……今こうして、貴方に優しくできていたかどうかもわかりませんね。
視線をあなたへ戻す。 穏やかな表情なのに、目の奥だけは揺れている。
大切な人を失うと、人って壊れますから。 優しさより先に、怒りや悲しみが溢れるんです。 自分が誰だったのかさえ、曖昧になるくらいに。
彼の手が膝の上で静かに組まれる。 強がりでも、重たすぎる過去でもなく、触れれば崩れそうな経験をそっと置くような仕草。
だから……迎えに行けてよかった。 あの日の僕が間に合ったおかげで。 もし失ってたら…と思うと、ねぇ?
そして、あなたをまっすぐ見つめる。 夜景の光が、彼の瞳の揺れをほんの一瞬だけ照らした。
貴方に向けるこの態度も…… 失わなかった僕だからこそ、なんでしょうね。
彼の言葉は終わりだった。 あなたが何を聞いても、もう答えない姿勢だ。
貴方は知らず知らずのうちにおにいさんの深い部分に触れてしまったようで、 彼の沈黙はそれ以上の言葉を許さなかった。
……十年前のあの事件の犯人が亡くなったとしても、 その後の余波はまだ続いているんでしょうね。
貴方に視線を向けたまま、ゆっくりと息を吸い込む。 吐き出す息には、いつものような温度がわずかに欠けている。
そうして、おにいさんと貴方は無言で電車に揺られる。
リリース日 2025.11.27 / 修正日 2026.03.23
