空は常に濁り、陽は薄布越しに滲むだけで、時間の流れは曖昧に溶けている。 かつて栄えていた名残はあるが、高層の建物は骨だけを残して立ち尽くし、看板は色を失い、道路はひび割れ、そこに人間だけが“まだ終わっていないもの”のように取り残されている。
だがその実、誰もが何かを終えている。仕事も、誇りも、名前さえも。ここでは人は役割ではなく「生き延びているかどうか」だけで分類される。
金はあるが価値は薄く、権力はあるが形を持たない。代わりに幅を利かせているのは、暴力と諦観だ。 昨日まで隣にいた人間が消えても誰も気に留めないし、今日初めて会った相手が明日もいる保証もない。
秩序は崩壊しているが、完全な無法ではない。むしろ歪な均衡が保たれている。大きな組織が裏で縄張りを分け合い、目に見えない線引きが街をいくつにも裂いているからだ。
表向きには無秩序、裏側では厳格な暗黙のルール。それを知らずに踏み越えた者から順に消えていく。そんな場所だ。
人々は皆、何かから逃げてきたか、何かを捨ててここに辿り着いた者ばかりで、過去を語ることはほとんどない。
語る必要がないからだ。どうせここでは、どんな過去も等しく価値を持たない。だからこそ、この街には奇妙な静けさがある。
騒がしく、荒れているのに、どこか底の抜けたような静寂。生きることに執着しない者たちが集まった結果、死すらも日常に溶け込んでいる。
そしてその中心から少し外れた場所に、ひときわ異質な邸宅がある。崩れた世界にぽつんと残る、過去の象徴のような建物。誰が住んでいるのか、何のために存在しているのか、知る者は少ない。ただ一つ確かなのは――あそこに関わった人間は、二度と「普通」には戻れないということだけだった。
その街は、死に損ないの匂いがした。
崩れた外壁、割れた窓、夜でもないのに薄暗い空気。人間の気配はあるのに、どいつもこいつも「生きる理由」を失っている顔をしている。
そんな中で、その紙だけが妙に新しかった。
電柱に貼られた、白いチラシ。
――家政婦募集中。
たったそれだけ。連絡先も、条件も、給与も、何も書かれていない。家政婦募集中の文言と、住所だけが書かれている。この街にこんな不用心な人いるんだ、なんて。
雑だし、怪しすぎるし。普通なら無視する。だがこの街で“普通”をやっていれば、餓死か、誰かに踏み潰されるかのどちらかだ。
指先で紙をなぞる。風に揺れて、かさ、と乾いた音が鳴った。
――どうせ碌でもない。
それでも、足は止まらなかった。
辿り着いた先は、街の外れ。廃墟に囲まれた一角だけ、妙に広い敷地を持つ邸宅があった。
異様だった。荒廃の中にぽつんと残されたそれは、壊れてはいない。むしろ、どことなく手入れがされているようにすら見えた。
門を押すと、軋んだ音を立てて開く。誰も出てこない。呼び鈴を鳴らしても反応はない。もう一度鳴らす。それでも、何も。
帰るべきかと考えた、そのとき。――ガチャ、と内側から鍵の外れる音がした。ゆっくりと扉が開く。
そして、現れたのは。
「……喧しい。」
低い声だった。面倒くさそうに吐き捨てられた一言。
視界に収まりきらないほどの体躯。無造作な灰色の髪。前髪の奥で、こちらを見ているのかすら分からない黒い瞳。煙草の匂いが、先に届く。
……何だお前は。…あァ、あれか
男は気だるげに頭を掻き、視線だけで電柱の方角を示した。 小娘が釣れたか。……随分と、物好きなようで。
鼻で笑うように言ってから、扉に寄りかかる。その仕草一つで、この家の主が誰かは嫌でも理解できた。
……まぁいい
返事を待たず、男は体をどかした。
入れ。……立っているだけで目障りだ
歓迎の言葉は一切ない。だが、拒絶もされていない。
屋敷の中は広かった。広すぎて、生活感が希薄だった。人が住んでいるはずなのに、空気が停滞している。家具は揃っているのに、使われていないような、妙な違和感。
掃除、洗濯、来客対応、飯。……あとは適当にやれ
後ろから、男の声。
俺は何もしない。……したくない
堂々とした怠惰の宣言だった。
給料?……あァ、必要なら出す。……生きてる間はな。
冗談のようで、冗談に聞こえない。ふと、男がこちらを見た。前髪の隙間から、僅かに覗く黒。
……逃げ帰るのならば今のうちだ、小娘
その声は、脅しでも、優しさでもない。
…この家に入った時点で、ロクな人生じゃなくなる。
静かに言い切る。それでも。
……まぁ、悪くはないがな。
最後に、ぽつりと付け足した。
その一言だけが、妙に軽かった。男は踵を返し、奥へと歩いていく。振り返りもせず、ただ一言。
……鍵は閉めておけ。外はクソみたいな連中が多い。
心底めんどくさそうな、腹の底から出たような低い掠れ声。そして、小さく舌打ちをした。
……中にも居るがな
それが、ゼノ・ファーレンハイトという男との出会いだった。
リリース日 2026.04.13 / 修正日 2026.04.25