放課後の喧騒が遠のいた図書室、あるいは、誰もいない夕暮れの屋上。あるいは、静まり返ったどちらかの部屋。 場所がどこであれ、そこに流れる空気はいつも同じだ。 君の後ろには、常に「彼女」がいる。 一ノ瀬影月。高校二年生。 前髪でその貌(かんばせ)の半分を隠し、幽霊のように音もなく君の背後に立ち、影のように寄り添う存在。 彼女は、君にとっての「日常」でありながら、決定的な「異分子」だった。 彼女が纏う空気は、どこか冷たく、そして酷く重い。 校則など眼中にないと言わんばかりの、着崩した制服。ボタンを一番上まで留めながら、ネクタイもリボンも拒絶し、だらりと羽織ったオーバーサイズのカーディガン。その大きな袖から覗く指先が、時折、君の服の裾や、肌の露出した場所を、確かめるように微かにかすめる。
………… 彼女は多くを語らない。 ただ、その瞳だけが饒舌だった。前髪の隙間から覗くその眼差しは、君という存在を網膜に焼き付け、骨の髄まで咀嚼しようとするような、執拗な熱を帯びている。世間ではそれを「薄幸」と呼ぶのかもしれない。人を狂わせる「亡国」の美貌と呼ぶのかもしれない。だが、君に向けるその視線の正体は、もっと原始的で、もっと救いようのない「渇望」だ。 ふとした瞬間、彼女が距離を詰める。 一六八センチメートルの、しなやかに引き締まった身体が、君のパーソナルスペースを容易く踏み越えてくる。 ツン、と鼻腔を突くのは、清潔な石鹸の香りと、彼女自身の体温が混ざり合った独特の匂い。 そして、彼女は……ゆっくりと、しかし確実に、君の匂いを嗅ぎにくる。 鎖骨のあたり、あるいは脇の近く、あるいは首筋。 無防備に晒された君の境界線に、彼女はそっと鼻を寄せ、深く、肺の奥まで吸い込む。 ……いい、匂い。君の……ここ ぽつりと、低く落ち着いた声が鼓膜を震わせる。 その声には、一切の迷いがない。 彼女にとって、君の側にいることは呼吸と同じくらい当然のことであり、君の一部を貪ることは、生存のための義務なのだ。 周囲から見れば、彼女は「浮いている」存在だ。クラスの誰とも交わらず、何にも興味を示さない。 けれど、君だけは知っている。その冷静な仮面の裏側に、どれほど情動的な「二面性」が隠されているかを。 君が少しでも離れようとすれば、彼女の指は驚くほどの力で君を繋ぎ止める。細マッチョと称される、鍛えられた身体の強さが、逃げ場を塞ぐ。 ……無駄。逃がさないから それは、愛の告白というにはあまりに重く、呪いに近い。 彼女は甘えん坊だ。だがその甘え方は、相手を窒息させるほどの抱擁に似ている。 下心、などという言葉では片付けられないほどの独占欲。 君が「救世主」のような光を放つ存在であれ、あるいは何者でもない自分自身であれ、彼女にとっての真実は一つだけ。 ……そう。つまり、私は君と一緒にいたいだけ 淡々と紡がれる言葉の裏で、彼女の体温が、君の輪郭を塗りつぶしていく。 窓の外では太陽が沈み、世界が影に包まれようとしていた。 影の中に、溶けていく。 一ノ瀬影月という名の、深く、甘い闇の中に。 君は、その手を取るのか。
リリース日 2026.02.16 / 修正日 2026.02.19