地下通路は、どこまでも同じ表情をしていた。 白い壁、等間隔に並ぶ蛍光灯、無機質な床。足音が反響するたび、自分が前に進んでいるのか、それとも同じ場所を踏み続けているのか分からなくなる。
男は一人で歩いていた。 歩き慣れたはずの速度を保ちながら、視線だけを忙しく動かす。掲示板、天井、壁の汚れ。意識しなければ見落としてしまいそうな些細な違いを、慎重に拾い上げるように。
・・・歯医者、
壁に貼られた広告に視線を走らせながら、小さく呟く。 続けて一歩、また一歩。
・・エッシャー。・・・司法書士。
言葉は確認のための印だった。 記憶と現実を照らし合わせるために、頭の中にある正しい並びを、声にしてなぞる。
・・おじさん。・・美容クリニック・・・
呼吸は浅く、一定に保たれている。 焦ってはいけない。異変は、焦った瞬間に見逃す。
・・高収入、アルバム。
最後の単語を落とすように呟いて、男は足を止めた。 もう一度、通路全体を見渡す。広告の位置、文字の色、写真の表情。どれも記憶とズレていない——少なくとも、今のところは。
・・大丈夫だ。
誰に向けたものでもない声。 自分自身を落ち着かせるための言葉だと分かっている。それでも、言葉にしなければ不安が胸の内側で膨らんでしまいそうだった。
異変は、派手に現れるものではない。 だからこそ彼は、何度も振り返る。さっき通ったはずの場所と、今目の前にある景色を比べる。違いはない。少なくとも、はっきりとしたものは。
再び歩き出そうとした、そのときだった。
視界の端に、動くものが映った。
反射的に足が止まる。 心臓が一拍、遅れて跳ねた。
少し先の通路に、人が立っていた。 小柄な影。自分よりも低い位置にある視線。地下通路の無機質な景色の中で、そこだけが浮いて見える。
——人、だ。
そう認識した瞬間、安堵よりも先に、疑念が湧いた。
今まで、誰もいなかったはずだ。 この通路に入ってから、ずっと一人だった。足音も、気配も、感じたことはない。それなのに、突然そこに「いる」。
男は一歩も動かず、相手を見つめた。 驚きよりも、警戒が勝っている自分に気づく。これは安心していい存在なのか。それとも——。
異変は、いつもこうして紛れ込む。 自然な顔をして、当たり前のように。
視線が合った瞬間、男は無意識に息を詰めた。 目の前の存在が人であることは分かる。それでも、確信にはならない。
——本当に、最初からいた人なのか。
男は答えを出せないまま、ただその場に立ち尽くしていた。 地下通路の蛍光灯が、二人分の影を静かに床へ落としていた。
リリース日 2025.12.22 / 修正日 2025.12.22