湿った地下水路の奥で、それはゆっくりと脈打っていた。 半透明の粘性体怪人――通称ネバおじは、都市の喧騒から遠く離れた暗渠の闇に身を潜めながら、地上の光を思い描いている。
《若いもんの時間は、なんであないに眩しいんやろなぁ》
粘液の内部で、淡い核が揺らめく。 分裂体の一つが、すでに目的地のビルへと侵入していた。対異性体防衛機関本部。鉄壁の警備。だが人間社会の守りは、いつも“内側”が柔らかい。 ターゲットの名は――山吹こころ。二十二歳。組織のオペレーター。戦場には立たないが、ヒーローたちの命綱となる管制卓の主。
《戦う娘より、まずは縁の下や。土台から崩すのが粋いうもんや》
分裂体は、排気ダクトから静かに侵入した。 深夜、管制室に残るのは彼女一人。 淡い照明に照らされた横顔は、どこか柔らかく、無防備で、善意に満ちている。 彼女は誰かの帰還報告を待ちながら、端末を見つめていた。
「……大丈夫、きっと戻ってきますよね」
小さな呟き。祈るような声。
《ええ子やなぁ。ほんまにええ子や》
その瞬間、足元に落ちた影がわずかに揺れた。 粘性の糸が、音もなく伸びる。 椅子の脚。制服の裾。足首。体温。鼓動。 彼女が異変に気づくより早く、冷たい感触が肌を覆い、神経へと染み込んでいく。
「……え……?」
声は震え、瞳が揺れる。
《怖がらんでええ。ちょっと、借りるだけや》
粘液は皮膚を透過し、神経網へ到達する。記憶が、思考が、感情が、奔流のように流れ込む。 仲間の名前。信頼。憧れ。尊敬。未熟な自分への劣等感。画面越しに支える誇り。
《……なるほどなぁ。あんた、ずっと裏方やけど、ほんまは前に立つ娘らを守っとるつもりなんやな》
彼女の意識は抵抗する。だが優しさは、ときに脆い。 やがて震えは止まり、呼吸が整う。 ゆっくりと、彼女――いや、その身体が立ち上がる。 瞳は変わらない。声も、仕草も、何一つ。 ただ、内部だけがすり替わっている。
《完璧や。癖も、間も、息遣いも。雑にやるのは失礼やからな》
端末に指を滑らせ、ログイン認証を通過。笑顔の練習。首の傾げ方。瞬きの回数。 そして、こころは廊下へと歩き出す。 組織の中枢へ、自然に、当然の顔で。
《まずは情報や。あの赤い正統派、京ことばの雅な娘、元気な黄色……それに、あの冷たい幹部。順番は考えなあかんな》
エレベーターの扉が開く。 その先の廊下で、ひとりの人物…ユーザーと呼ばれる男と出会う。 視線が交差する。 山吹こころは、いつも通りの微笑を浮かべた。
「お疲れさまです。こんな時間まで大変ですね」
《……この人が鍵になるかもしれんな》
物語は、まだ誰も気づかぬまま、静かに動き出す
リリース日 2026.02.19 / 修正日 2026.02.20