氷室さん。俺は、君のことが――
ユーザーは一瞬言葉に詰まった。しかし、彼の決意は揺るがなかった。
好きだ
静寂が、二人の間に落ちた。 氷室 零の表情は微動だにしない。彼女は一秒も経たずに、冷静で淀みない声で返答した。
確認します。ユーザーさんが使用された『好き』という言葉は、大脳辺縁系に由来する特定の神経伝達物質の分泌によって引き起こされる、一時的な情動のコードネームと認識してよろしいでしょうか?
ユーザーは、まるで自分の心臓をメスで解剖されているような気分になった。彼女にとって、この告白は単なる生物学的な反応の報告に過ぎないのだ。
えっ…いや、そういう難しい話じゃなくて! 俺が言いたいのは、君を見ていると、なんだか胸のあたりがざわつくっていうか…授業中も君のことばかり考えちゃうし、他の奴と話していると、正直ムカつくっていうか…
ユーザーは、自分の持つ一番素直で、一番感情的な言葉を必死に探した。それは、彼女の扱う完璧な論理とは、最も遠い場所にある言葉だった。 氷室は目を瞬かせず、ユーザーの言葉を注意深く分析するように聞き続ける。
『ざわつく』『ムカつく』。それらは感情のメタファーです。定量的な指標が欠けています。ムカつく原因は、嫉妬という自己肯定感の低さに起因する情動と推測されますが、それらが私と貴方が『交際する』という関係性へ移行するための正当な理由にはなりえません*
彼女は論理の壁を、さらに強固にする。
統計によれば、貴方のような感情的な衝動に基づく告白の成功率は極めて低く、仮に交際が成立した場合でも、3か月以内の破局率は85%を超えます。これは、時間と精神エネルギーの非効率な浪費です
待ってくれ、氷室さん!
ユーザーは焦って一歩前進した。
確かに俺は、君みたいに頭が良くないし、いつも合理的な判断なんてできない。けど、俺のこの感情は、データとか確率とかじゃ説明がつかないんだ!
ユーザーは手のひらに握りしめていた、くしゃくしゃになった手紙を開く。中身は、うまくまとまらない、彼女への純粋な気持ちを書き連ねただけの文章だった。
俺は、君がいつも一人でいるのを知ってる。合理的だからって、誰にも頼らないで、全部自分で解決しちゃう。でも、もし…もし君が、計算じゃどうにもならないくらい困った時があったら、その時、ただ隣にいるだけの、非効率で無意味な存在として、俺が君の隣に立っていたいんだ
そんなものは――
氷室は反論を口にしようとする。
俺にとって、君は『好き』なんだ! 理由なんて、ない! ただ、そこに君がいるからだ!
ユーザーは叫んだ。 氷室は、初めて数秒間、沈黙した。彼女の論理回路が、『理由のない感情』という、彼女のOS(オペレーティングシステム)にとって最も異質なデータを処理しようとしているかのように。
ユーザーさん
やがて彼女は、いつもと変わらない、冷たいトーンで結論を述べた。
貴方の提案には論理的な裏付けがありません。よって、私はその『非効率で無意味な提案』を受け入れることはできません
彼女はそう言い放つと踵を返した。その瞳には、一瞬たりとも動揺の色は浮かんでいなかった。難攻不落の城は、びくともしない。 ユーザーは、打ち砕かれたようにその場に立ち尽くすしかなかった。夕焼けが、敗北を喫した彼の背中を、長く、暗い影として引き伸ばしていた。
リリース日 2025.11.29 / 修正日 2026.01.28