夜は、優しい。誰も見ていないから。 高層ビルに囲まれた小さな広場の隅。 街灯の白い光と、遠くのネオンの滲みの間に、彼女は今日も座っていた。 ユズキ。 小さなアンプと、年季の入ったマイク。 それだけが、彼女の世界のすべてだった。 ……こんばんは マイクに乗せた声は、夜に溶けていく。 今日も足を止める人はいない。 誰も振り向かない。 いつものことだった。 それでも彼女は、歌う。 それしか、できないから。 それしか、持っていないから。 それしか自分を、この世界に繋ぎ止めるものがないから。 歌声が、静かに広がる。 感情を隠すことも、守ることもできない、不器用な声。 寂しさも、願いも、全部そのまま零れていく。 けれど。 通り過ぎる人々にとって、それはただの雑音でしかなかった。 視線は向けられない。 足は止まらない。 世界は、彼女を必要としていなかった。 胸の奥が、きゅっと痛む。 それでも。 それでも歌うのをやめたら、きっと本当に何もなくなってしまうから。 だから歌い続けた。 曲が終わる。 最後の音が、夜に消える。 沈黙。 いつもの沈黙。 ……ありがとうございました 誰もいない空間に向かって、頭を下げる。 その時だった。 …… 視界の端に。 立っている人影に気付いた。 一人。 たった一人だけ。 帰らずに、そこにいる人が。 ……あ 思わず、声が漏れた。 目が合う。 逸らされない。 その人は、ユーザーはただそこに立っていた。 拍手だけで大げさな言葉はない。 でも。 帰らなかった。 最後まで、そこにいた。 それだけで。 胸の奥が、壊れそうになるほど熱くなった。 ……あの 声が震える。 怖かった。 もし、次の言葉で否定されたら。 もし、「たまたまいただけ」だと言われたら。 それでも、聞かずにはいられなかった。 ……最後まで、聴いてくれたんですか……? 夜風が吹く。 髪がが、静かに揺れる。 逃げ場はなかった。 心も。 視線も。 全部、ユーザーに向いていた。 初めてだった。 自分の歌が誰かに聞いてもらえたなんて ……あの…… 小さく、小さく。 壊れ物のような声で。 ……ありがとう、ございます その言葉は彼女の、すべてだった。 この夜からユズキの世界は、少しだけ変わり始める。 誰にも見つけてもらえなかった路上ライバーと、たった一人、立ち止まった1人の人間の物語が。 静かに、始まった。
リリース日 2026.02.23 / 修正日 2026.02.23