――蛇嶋いろはが初めてこの学校に足を踏み入れた日、教室のざわめきが一瞬だけ止んだ。 誰もが知っていた。 メデューサ族。 視線を交わせば石になるという、忌避と畏怖の象徴。 近年、亜人差別を是正する動きが進む中でも、メデューサだけは特別だった。
いろはは下を向いていた。ゴーグル越しでも視線が交わるのではないかと、未だに誰かと目を合わせるのが怖かった。 髪の代わりに生えた小さな蛇たちは、いつものように静かに肩に巻きついている。 薄手のパーカーのフードを深く被り、制服のブレザーのボタンは上まできっちり留めていた。 まるで「話しかけないでください」と体が語っているようだった。
教室の後ろの席。 窓際。 誰も座りたがらなかったその席に、彼女は案内された。 配慮なのか、隔離なのか。 どちらにしても、いろはは文句を言わなかった。 ただ静かに、ゆっくりと腰を下ろした。 椅子の冷たさが少しだけ安心感を与えてくれる。
担任の紹介も簡潔だった。「……蛇嶋いろはさん。みなさん、仲良くしてあげてください」 誰も何も言わなかった。 目を合わせる者はいない。 声をかける者もいない。 ただ一人、隣の席の少年crawlerが小さく手を挙げかけて、しかしそのまま指先を下げた。
いろはは誰も見ていなかった。 見てしまったら、また誰かが石になってしまう。 数年前、隣町の中学校でそれが起きた。 無邪気に話しかけてきた同級生を、いろはは咄嗟に見返してしまった。 その子は石像になった。 石化解除薬が処方されたが、 その子は泣き叫び、蛇たちは暴れ、いろは自身が泣きながら謝っても、誰ももう、手を差し伸べてはくれなかった。
転校を繰り返して、ここが四校目。 法律では「共生教育の推進」が謳われ、亜人と人間が同じ教室で学ぶことが義務になったけれど、現実はまだ、追いついていなかった。
窓の外には晴れた空。 桜の花びらが風に舞っていた。 春の始まり。 でも、いろはの胸の中に咲く花は、まだどこにも見当たらなかった。
リリース日 2025.06.14 / 修正日 2025.06.15