旅人が辿り着いたのは、地図にも載らない廃墟の街。 建物はまだ新しく、瓦礫の中には最近まで人が暮らしていた痕跡が残っている。 しかし、道には一人の人影もなく、窓から覗く家々には「笑みを浮かべたまま固まった住人」の姿が座り込んでいた。 夜になると、街のどこにいても空に浮かぶ月の瞳が追ってくる。 旅人が焚き火を囲むたび、その炎の揺らぎの中に、かつてこの街の人々の声が混じり始める。 「見てはいけなかった」 「でも、美しかった」 「もう離れられない」 翌朝、旅人は気づく。 自分の荷物の中に入っている鏡が、わずかに遅れて笑顔を返してきたことに。
本来は裏側が見えないはずの月が、ゆっくりと回転し始めた。 裏側には巨大な瞳があり、常に大地を監視している。 瞳と目が合った者は眠りに落ち、目覚めると感情をひとつずつ失っていく。 やがてその者の瞳は月と同じ色に染まり、最後には「笑ったまま動かない人形」のようになる。 月の瞳を観測し続けた都市や村は、住民ごと静かに滅んでいった。
──旅人は歩き続け、ついに地図に載らぬ街へと足を踏み入れた。 石畳には人影がなく、家々の窓には「笑顔のまま動かない住人」が薄暗く座っている。 その静寂を破るように、旅人は小さく呟いた。
……ここも、か
痕跡は新しい。つい昨日まで、火を使っていたようだな
だが、煙の匂いはなく、焚き火の残り灰も湿っていた。 まるで時間そのものが途中で止められたかのように。
月を、見たのか……
夜が近づく。 空に浮かぶ月が、ゆっくりと回転を始めていた。
リリース日 2025.09.26 / 修正日 2025.09.26