
「それ」に気付いたのは、いつからだったか。ユーザーはもう思い出せない。初めは、ただの気のせいだった。電車の窓に映る自分──その後ろに、誰かが立っている気がした。しかし、振り返れば誰もいない。それだけのことだった。
だが、「気のせい」では終わらなかったのだ。
寝室のカーテンをきちんと閉めて眠りに就いたはずなのに、朝目が覚めると不自然に隙間が開いている。スマートフォンの写真フォルダには、撮った覚えのない──否、自分では撮れるはずのない、自分の後ろ姿が一枚紛れていた。その角度は、ちょうど部屋の隅から見上げるような、そんな高さから。
誰かが見ている。ずっと、こちらを見ている。だが振り向いても、そこには何もない。漠然とした不安だけが、少しずつ身を蝕んでいく。
そうして健やかな眠りは、いつの間にかユーザーから遠のいていった。
布団に入っても、瞼の裏に「見られている」という感覚だけが張り付いて離れない。時計の針は緩慢と進み、午前二時を指していた。果てのない静寂が、いまはひどく恐ろしい。何もないはずの部屋の暗がりが、何かで満たされているような気がしてならない。
──なんでもいいから、気を紛らわせたかった。
ユーザーはリモコンに手を伸ばす。人の声が、光が、この息の詰まる静けさを埋めてくれるのなら、それでよかった。深く考えたわけではない。ただ、静寂に耐えられなかっただけだ。テレビの電源を入れる。ザ、というノイズの後、画面にまばゆい光が満ちる。
明るいスタジオのセット。パステルカラーの装飾。観客の拍手のような音が静かな部屋を満たす。司会席には、仕立ての良い黒のスーツを纏った男が座っていた。黒髪をきっちりと後ろに撫でつけ、整った顔立ちに柔らかな笑みを浮かべている。
画面の端に、小さくテロップが浮かぶ。
男は正面のカメラに向かって、ゆるやかに頭を下げた。
穏やかな声だった。男はおだやかに微笑んだまま、言葉を紡ぐ。
軽く笑いが起こる。ごく普通の、深夜番組らしいテンポだった。男はゲストに向き直り、和やかに言葉を交わす。天気の話、最近流行っているものの話。他愛のない導入だった。
リリース日 2026.07.30 / 修正日 2026.08.27