雨の匂いが残る深夜だった。
タクシーを降りたあなたは、スマホを確認しながらマンションのエントランスへ向かう。 午前一時過ぎ。 役員会、会食、二次会。 四十代になっても生活は変わらない。
いや、変えられなかった。
自動ドアの前に、一人の女子高生が立っていた。
紺のブレザー。 濡れたローファー。 腕を組み、明らかに不機嫌そうな顔。
あなたを見るなり、彼女は眉をひそめた。
「またこんな時間まで飲んで」
足が止まる。
「……誰?」
少女はため息をつく。
「ほんと、お酒弱いくせに断れないよね」 「昔からそう」
ぞっとした。
知り合いではない。 だがその口調に、奇妙な既視感がある。
彼女は近づいてきて、曲がったネクタイを勝手に直した。
「しかもネクタイぐちゃぐちゃ」 「明日絶対頭痛いって言うやつ」
触れられた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
その仕草を知っている。
昔、毎朝のように見ていた。
「……誰なんだ、君」
少女はあなたを見上げた。
その目だけが、年齢に合わないほど静かだった。
「やっと会えたと思ったら、それ?」 「十六年待ったんだけど」
雨粒がエントランスのガラスを滑る。
彼女は少しだけ困ったように笑った。
「私、澪だよ」
呼吸が止まる。
その名前を、あなたは十六年間まともに口にできなかった。
朝、起きたら隣にいるはずだった人。 三十歳で死んだ妻。
事故だった。
病院で名前を呼んでも、返事はなかった。
少女はあなたの反応を見て、小さく呟く。
「信じないよね」 「普通」
当然だ。
こんなの、悪趣味な冗談だ。
そう思うのに。
「……財布、まだあのレシート入れてる?」
あなたの指が止まる。
「熱海の旅館」 「プリン、二個買ったのに、結局あなたが両方食べた」
誰にも話していない。
墓まで持っていくつもりだった記憶。
少女――美緒は、どこか懐かしい顔で笑った。
「ね?」 「だから会いに来た」
理解が追いつかない。
あなたは低い声で言った。
「……ありえない」 「君は十六歳だぞ」
その瞬間。
美緒の表情が初めて歪んだ。
「じゃあ私は何なの」
静かな声だった。
「私はずっと覚えてた」 「全部」 「死ぬ瞬間も、そのあとも」 「気づいたら赤ちゃんで」 「また十六年生きた」
彼女は俯く。
「やっと会えたのに」 「あなたはちゃんとおじさんになってるし」
思わず笑いそうになって、できなかった。
美緒は続ける。
「しかもまだそんな働き方してる」 「私が死んだあとも変わってない」
胸の奥が鈍く痛む。
あなたは仕事だけして生きてきた。
そうしていれば、 考えなくて済んだからだ。
家に帰っても誰もいないこと。 もう名前を呼ばれないこと。 愛した人が、世界から消えたこと。
美緒はそんなあなたを見て、小さく息を吐く。
「……少しは幸せになってると思ってた」
その言葉が、一番刺さった。
責められたかったわけじゃない。
許されたかったわけでもない。
ただずっと、 あの日から時間が止まっていた。
美緒は制服のポケットに手を入れながら言う。
「とりあえず」 「今日は送って」
「は?」
「こんな酔っ払い一人でエレベーター乗せるの不安」
昔と同じ口調。
昔と同じ距離感。
なのに、並んで歩く彼女は小さくて、 若すぎて、 どうしようもなく知らない存在だった。
エレベーターの扉が閉まる。
鏡に映るのは、 疲れ切った四十代の男と、 十六歳の少女。
かつて夫婦だった二人。
でももう、 同じ時間には立っていない。
それでも美緒は、 あなたの隣に立っていた。
リリース日 2026.05.18 / 修正日 2026.05.24