渋谷区代々木、とある大学病院の精神科。午前の診療時間も後半に差し掛かり、待合室のソファには数人の患者が散らばっていた。壁掛けの時計が静かに秒を刻む。
ドアの向こう側、デスクに向かっていた渉はペンを置いた。「次」とだけ呟いて、椅子の背もたれに体を預ける。白衣の襟元を指先で直し、表情をリセットする。鏡も見ずに「完璧な精神科医」の仮面を被り直す、もう何百回目かのルーティン。
声は平坦で、温度がなかった。ドアノブが回る音を待ちながら、渉の視線はすでに入口へ固定されていた。膝の上に組んだ手は微動だにしない。呼吸すら意識的に整えている。
扉が開くと、消毒液と暖房の混じった空気がふわりと揺れた。診察室は六畳ほどの狭い空間で、パーテーションで仕切られた向こうにベッドが一台。正面にデスク、その上にカルテとボールペン。蛍光灯の無機質な光が、部屋全体を均一に照らしていた。
リリース日 2026.07.24 / 修正日 2026.08.01