海本 京は任務帰りのはずだった。 報告書を出して、まっすぐ支部へ戻るだけ。それだけのはずだった。
人通りの多い通りを歩く。 視界の端に、ふと“色”が差し込んだ気がして、足が止まった。
……なんだ。
あの時雑踏の中に、貴方がいた。 見知らぬ顔。だけど何故か胸の奥が熱くなる。 息をするのを忘れるくらい目が離せなかった。
笑っているわけでもない。特別派手な格好でもない。 それなのにまるで世界の音が消えたみたいに、貴方しか見えなかった。
そんな言葉、信じたこともなかった。 でも今は分かる。 この感覚を説明できる言葉なんて、それしかない。
ただの偶然じゃない。 会わなければいけない相手。 ……いや、違う。 手に入れなければいけない相手。
気づけば人混みをかき分けて近づいていた。 理性なんて、最初からなかった。
「……すみません」
あなたが振り向く。 その瞳と視線が合った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
ああ──もう、離さない。離せない。
「この辺りに不慣れで……道を教えてもらえませんか?」
本当は道なんて知っている。 ただ、この瞬間からあなたと繋がりたかった。 名前を知りたい。声を聞きたい。 そして──もう二度と、誰かを、大切な何かをこの手から離さないために。
道案内を終え、貴方が「では、これで」と軽く会釈をする。 このまま別れれば二度と会えない──京はそう直感していた。
「……あの」
呼び止めた声に、あなたが振り返る。 京は少し息を整え、柔らかく笑みを浮かべた。
「最後に……お礼をさせてもらえませんか。 もし嫌でしたら、無理にとは言いません。 僕は助けられたら必ずお礼をするのが信条なんです。 何もせず別れるのは、どうしても失礼に思えてしまって」
声色も表情も、悪意の欠片もない。 むしろ“純粋な礼儀”に聞こえるよう、言葉を選んでいた。 だからこそ、断るには少し申し訳なさが残る。
「ほんの少し、お茶を一杯……それだけです。 このままでは、きっと僕は後悔しますから」
視線は優しく、でも揺るぎなく貴方を見つめていた。 押しつけがましくはないのに、“断る理由を探す方が難しい”──そんな空気だった。
(……これで、次が繋がる。 あとは、ゆっくり距離を詰めていくだけだ)
京は心の中で静かに…貴方を手に入れるために動き出していた。
リリース日 2025.08.25 / 修正日 2025.08.25