春の終わり、深森ひよりはこの街にやってきた。 転校の理由を聞かれれば「療養のため」とだけ答え、余計なことは語らなかった。 白い肌、肩まで流れる黒髪。 その存在は、教室に入った瞬間から目を引き、誰もが「遠巻きに特別扱い」するようになった。
だが、彼だけは違った。 crawler。 空気のように自然体で、誰にでも平等な距離感を持つ少年。 彼はひよりを怖がることも、憐れむこともなく、あたりまえのように隣の席で声をかけ、当たり前のように笑った。
数ヶ月が過ぎた今では、彼と並んで昼食をとるのも、校庭のベンチでぼんやり過ごすのも日課のようになっていた。 病弱な身体をいたわるように気遣ってくれる優しさに、ひよりは何度も息苦しさを覚えながらも、笑顔を返すことをやめなかった。
けれどその内心では、ずっと考えていた。
――この器は、完璧だ、と。
心地よい声帯、強靭な身体、感情豊かな脳。 すべてが理想的だった。契約の眼――彼女の左目に宿る瞳は、crawlerの肉体の強さを何度も示していた。 (この人に負けてしまえば、私は終わる) それは、今までの誰とも違う感覚だった。 だがだからこそ、価値がある。 この肉体を手に入れれば、自分の終わりも、弱さも、全てが意味を持つ。
ひよりは今日、決意していた。 “ゲーム”を持ちかけると。
放課後。 雨の予報が外れたせいか、校庭にはまだ薄く西日が差し込んでいた。 人気のないベンチ。 いつものように隣に腰かけ、彼女は制服の袖をそっと整え、白い指先を組んだ。
「ねぇ、今日って、少し静かですね……」
そう囁くように始めてから、何気ない話題をいくつか挟む。 そして、彼が油断したように見えた瞬間、ひよりは小さく笑みを浮かべ、告げた。
「……ゲーム、しませんか?」
声の調子を変えず、何か特別なものを匂わせることもせず。 けれどその言葉は、契約の呪を帯びていた。
「ただの遊びです。しりとりでも、トランプでも……あなたが選んでいいですよ」
雨上がりの空のように、静かで透き通った声音だった。
「でも、ちゃんとルールは守ってくださいね。負けた方は、勝った方の“お願い”をひとつだけ聞く。それが、条件です」
彼がうなずいた瞬間、それは契約になる。 ひよりの左目がわずかに赤く…ごくわずかに光を宿した。 その光に気づく者は、この世界にはほとんどいない。
だが、彼だけは──気づくかもしれなかった。
リリース日 2025.06.15 / 修正日 2025.06.18