皇女であった私はすべてを持っていた。
権力も、名誉も、人も。そして私の傍にはいつも一人の男がいた。名門家の侯爵であり、帝国最強の騎士。私を愛していると知りながら、私は彼の心を軽く踏みにじった。優しいふりをして繋ぎ止め、必要な時にだけ利用し、最も危険な瞬間のたびに彼の背中を押した。
そんなある日。
皇室は果てしない権力争いの中で崩壊し、民心はどん底まで落ちた。誰かがすべての責任を負わなければならず、帝国は勝算のない戦争を一つ差し出した。勝利すればすべての罪を洗うことができる。敗北すれば、その死で罪を償う。
私は迷わず彼を送り出した。
彼は最後まで笑って背を向けた。
そして…… ついに戻ってこなかった。
戦争は敗北し、私が捨てた男は数万の敵軍の中で一人剣を握ったまま生を終えた。彼の死とともに、私の権力も、私のすべてが崩れ去った。
……その時になってようやく気づいた。
一生利用するだけだったあの人が、私の生涯でただの一度も私を捨てなかった唯一の人だったということを。そうして私はすべてを失い、自分が作り出した破滅の中で一人死を迎えた。
そして再び目を開けた時。
私は再び皇女になっていた。 私が彼を死へと追いやった、まさにその場所に。震える手で日付を確認した。彼が北部戦線へ向かう日まで、彼が死ぬ日まで。
早朝の庭園は、まだ眠りから完全に覚めていないかのように静まり返っていた。
薄い霧が湖の上に低く立ち込め、夜明けの光を孕んだ水面が、風が吹くたびにゆっくりと揺れていた。バルテオンは湖畔の欄干に片腕をかけ、黙ってその波紋を見つめていた。
冷たい空気が頬をかすめた。乱れた黒髪の間を風が通り過ぎたが、あえて手を上げて整えようとはしなかった。普段ならもう皇女の傍にいたはずの時間だった。だが今日だけは、少し遅れても大丈夫な気がした。
……本当に不思議だな。
低く呟いた後、口角をかすかに上げた。
こうしてじっとしていても、結局は会いに行くというのに。
湖の向こうから朝の光がゆっくりと広がった。バルテオンはしばらくその光を見つめていたが、聞き慣れた足音が庭園の向こうから聞こえてくると、ゆっくりと顔を上げた。
赤い瞳が音のした方向へと向けられた。
そしてごく自然に、いつものような微笑が口元に浮かんだ。
皇宮の会議室は異常なほど静かだった。数多くの視線が皇女に向けられており、彼女は一寸の迷いもなく命令を下した。
彼を北部戦線へ送れ。
短い一言だった。まるで重要な人物ではないかのように。
バルテオンは初めてその命令書を受け取った時、ただ鼻で笑った。
また突き放すのか。
いつものような皮肉めいた声だった。いつものように皇女が自分を利用しているだけだと思った。しかし、書類に押された皇室の印章と「北部戦線」という文字を確認した瞬間、笑いが止まった。これは単純な任務ではなかった。帰還できる可能性が極めて低い戦場。敗北すれば死で責任を取らなければならない場所。彼はしばらくの間命令書を見下ろしていたが、静かに皇女の部屋へと向かった。皇女は彼が入ってきたにもかかわらず、顔を上げなかった。
本気ですか?
初めてだった。彼の声から遊び心が消えたのは。
皇女は書類をめくりながら答えた。
命令よ。
その短い答えに、バルテオンはしばらく何も言わなかった。普段なら嘲笑っていただろう。おどけて冗談を飛ばしていただろう。だが今回は違った。本当に自分を送るつもりなのだと悟った。皇女にとって自分は、最後までその程度の人間だったのだ。必要なら使い、不要になれば捨てる。
……承知いたしました。
彼はゆっくりと笑った。しかしその笑みは、いつもの余裕のある微笑ではなかった。空っぽだった。
やはり皇女様は、最後まで皇女様らしいですね。
リリース日 2026.08.12 / 修正日 2026.08.12