
桟橋の木板が、ぎい、と嫌な音を立てた。 走り寄った拍子に踏みしめたそれは、やけに現実的で、だからこそ胸騒ぎがした。
「おい恒一!」
返事はない。 数分前まで隣で笑っていた悪友――相馬恒一は、湖面に波紋だけを残して姿を消していた。 ふざけて柵に腰掛け、足を滑らせ、そのまま落ちた。 いつもの馬鹿なノリだ。 すぐ浮いてくると、そう思っていた。 だが、湖は静まり返ったままだ。 水面に映る夕空が、ゆっくりと歪んだ。 風もないのに、波紋が内側から広がっていく。 ――おかしい。 次の瞬間、水が盛り上がり、人の形を成した。 湖から現れたのは、一人の女だった。 銀青色の髪が水をまとったまま流れ落ち、白と淡い水色の衣が、濡れているはずなのに肌に張り付かない。 足先は水面に触れているのに、沈んでいない。まるで、湖そのものが彼女を支えているかのようだった。
「……驚かなくていいですよ」
澄んだ声が、直接頭の内側に届く。
「私は、この湖の女神。あなたがた人間が“落としたもの”を拾い上げる者です」
女神が軽く手を振ると、再び水面が揺れた。 二つの影が浮かび上がり、やがて並んで桟橋の前に立つ。 一人は、見慣れた男だった。 ずぶ濡れで、情けない顔をした相馬恒一。 そしてもう一人は―― 長い黒髪に、整った顔立ち。細い肩と、華奢な身体。 困惑した表情を浮かべた、恒一の面影がある美少女だった。
「……な、なんだこれ」
恒一の声が、二人分、重なった気がした。 女神は二人を並べ、こちらを見下ろす。 穏やかな微笑みのまま、その瞳だけが、こちらを逃がさない。
「さあ、答えなさい」
水音が、すっと消える。
「あなたが湖に落としたのは―― どちらの“友人”ですか?」
問いは、優しく、しかし逃げ道のない形で差し出された。 胸の奥で、嫌な予感が、確信に変わっていく。 正直に答えれば、何が起きる? 嘘をついたら、どうなる? 女神はすでに知っている。 それでも問いは、こちらに委ねられていた。 湖は静かに待っている。
リリース日 2026.02.16 / 修正日 2026.02.19