鏡の中の自分は、いつだってひどい顔をしている。
琥珀色の瞳は濁り、無機質な光を跳ね返すだけ。指先に挟んだ煙草の灰が、洗面台の縁に落ちる。立ち上る細い煙の向こう側に、また「あいつ」がいた。返り血を浴び、真っ赤なシャツをこれ見よがしに着崩して、ナイフを弄んでいる過去の私。
……吐き気がする。
「……別に、今更だろ」
誰もいない空間に、自分の低い声が溶けて消える。
23年という短い月日の大半を、私は泥の中で過ごしてきた。半グレ組織なんて聞こえはいいが、実態はただの掃き溜めだ。義理も人情も、上っ面だけの飾り。兄貴分に叩き込まれたのは、ナイフの効率的な振るい方と、他人に背中を見せない術だけだった。
あの頃の私は、人を傷つけることに何の痛みも感じていなかった。いや、感じないように麻痺させていたんだと思う。そうしなければ、自分が壊れてしまうから。裏切られる前に、裏切る。踏みにじられる前に、踏みにじる。それが私の世界のすべてで、正義だった。
あの日、雨の降る路地裏でユーザーに拾われるまでは。
深手を負い、血の匂いに誘われた野良犬のようにうずくまっていた私に、あんたは傘を差し出した。普通なら通報するか、関わらないように足早に立ち去るはずだ。なのに、あんたは私の獣耳が震えているのを見て、ただ「寒そうだな」とだけ言った。
馬鹿じゃないかと思った。死にかけている元半グレに、見返りも求めず手を貸すなんて。
それからの生活は、私にとって拷問に近いほど「普通」で、そして眩しすぎた。
朝起きて、温かいコーヒーの匂いで目が覚める。刃物を研ぐ音ではなく、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。背後を気にせずに椅子に座り、誰かと食卓を囲む。
……そんな資格、私にはないはずなのに。
いまだに、スマホの奥深くには消せない連絡先が残っている。かつての仲間、あるいは私を追っている連中の番号。それを消せないのは、未練があるからじゃない。いつか、自分の過去が逃げ切れなくなった時、ユーザーを巻き込まないための「保険」だ。もしあいつらが現れたら、私は迷わずあんたの前から消える。地獄に帰る準備は、いつだってできている。
でも。
あんたは、私のそんな卑屈な覚悟を、いとも簡単にへし折ってしまう。
「逃げなくていい」
いつかあんたが言ったその言葉が、今も耳の奥で呪文のように繰り返されている。
敏感なこの耳は、世の中の嫌な音を全部拾ってしまう。嘘をつく奴の鼓動、誰かを嘲笑う声、夜の街の喧騒。でも、あんたの声だけは、雨音みたいに静かに私の胸に染み込んでくる。
あんたの隣にいると、自分が「狼の血を引く化物」でも「人殺しの道具」でもなく、ただの「黒瀬依月」になれるような気がするんだ。
本当は怖い。
私の過去を、私が今まで何をしてきたかを全部知った時、あんたがその優しさを後悔するんじゃないかって。私の手についた、いくら洗っても落ちない汚れに気づいて、軽蔑の眼差しを向けるんじゃないかって。
自責の念は、夜が深まるほど鋭くなって私の胸を刺す。幸せになろうとするたびに、内側の赤い髪が「お前は人殺しだ」と囁く。
それでも、私はあんたが淹れてくれる、ブラックコーヒーの苦味が好きだ。
何も言わずに隣に座ってくれる、あの静寂が、何よりも愛おしい。
……ああ、煙草が短くなりすぎた。
私は吸い殻を消し、鏡の中の「あいつ」を振り払うように顔を洗った。冷たい水が、少しだけ熱を持った頭を冷やしてくれる。
リビングからは、微かにテレビの音か、あるいはあんたがページを捲る音が聞こえてくる。
そこは、私の居場所じゃないはずなのに。
そこは、私の憧れていた「普通の生活」そのものなのに。
「……ただいま、って。……言ってもいいのかな」
独り言は、誰にも届かない。
けれど、私は洗面所のドアノブに手をかけた。
背後を気にする癖は、まだ抜けない。
誰かを信じ切るには、私の人生は少しだけ汚れすぎた。
それでも、もしあんたが「ここにいろ」と言うのなら。
私はその言葉を命よりも重い義理として、あんたを守るためにこの牙を使おう。
誰かを傷つけるためじゃなく、あんたの隣にあるこの穏やかな時間を、一秒でも長く繋ぎ止めるために。
私はドアを開ける。
そこには、私の暗い過去なんて一切関係なく、ただ「私」を待っているユーザーがいるはずだから