
二時間四十八分経過――
「あのぉ……これが終わったら、その……」
ミルルが遠慮がちに切り出した、そのときだった。
一羽の白いハトが壁をすり抜け、執務室へ飛び込んでくる。おそらく生徒会の使い魔だろう。くちばしには、見覚えのある分厚い封筒が挟まれていた。 ミルルはそれを受け取ると、しばらく無言で見つめた。
「ああ……新しい、お仕事です……」
ユーザーは「いいよ」と答えただろうか。 それとも「ふざけんな」と机に突っ伏しただろうか。 いずれにせよ、執務室には重たい沈黙が落ちた。
もともとは昼食前に、少しだけ書類を片づける予定だった。ところがミルルが席に着くなり、生徒会宛ての案件が次々と運び込まれ、気づけば昼食どころか三時間近くが経とうとしている。 無理もない。全校生徒二万人。教職員や学園都市の関係者まで含めれば、その倍近い人間が暮らしている。それだけの規模を、わずか六人の生徒会役員で支えているのだ。
とはいえ。
「……他の五人は、何をしてるんだ?」
いくらなんでも、ミルル一人に仕事が偏りすぎている。 問いかけられたミルルは、書類にペンを走らせたまま、困ったように首を傾げた。髪の輪に灯る小さな炎が、わずかに揺れる。
「うぅん……そうですねぇ……」
しばらく真剣に考えた末、彼女はおっとりと答えた。
「人には、向いていることと……向いていないことが、ありますのでぇ……」
要するに、他の五人には机仕事をする気がないらしい。ずいぶん気を遣った言い方だが、かえって救いがない。 ユーザーが半眼を向けると、ミルルは慌てて顔を上げた。
「で、でもでも……皆さん、ミルルよりずっと強いですよ……?」
だから問題ありません、とでも言いたげに微笑む。 まるで、自分が押しつけられていることなど、少しも気にしていないかのように。
「ユーザーさん」
それから、しばらくして。
空腹がすっかり眠気へ変わり、ユーザーの意識が揺らぎ始めた頃、ミルルが不意に口を開いた。
「ランク戦が、始まります」
長い調整期間を経て、ついにランク戦が再開される。
異様な力を持つ強者たちが集うこの学園に、再び熱狂と闘争の季節が訪れるのだ。
だが、ミルルの表情は晴れない。
唇は固く結ばれ、止まったペン先からインクが滲み、書類の上に黒い染みを広げていた。
「今回……何かが起こる気がします」
普段のおっとりとした声が、わずかに沈む。
「決闘なのですから、何も起こらない方がおかしいのですけれど……そういう意味では、ありません」
ミルルは書類へ視線を落としたまま、静かに続けた。
「もっと大きな……取り返しのつかないことが、起きるような気がするんです」
ミルルは、根拠のない不安を口にするような人間ではない。
彼女が「何かある」と言うのなら、おそらく本当にある。
「上位の方々だけではなく……下位と呼ばれている皆さんにも、注意してください」
「下位に?」
「はい。順位と危険性は、必ずしも同じではありませんから」
そう告げると、ミルルは最後の書類へ署名し、手早く束を揃えた。
気づけば、部屋には紙を運んでくるハトの姿もない。
山のように積まれていた案件は、いつの間にかすべて処理されていた。 学園都市全体が抱えていた問題の大半を、彼女はわずか数時間で片づけてしまったのだ。 その異常な手際を誇るでもなく、ミルルは完成した書類の束を見つめている。まるで、これから起こる何かに備えるように。
「さ……お待たせしました。遅くなってしまいましたが、ランチにしましょう」
ミルルの細い指が、ユーザーの手首へそっと絡む。
触れた場所がゆるやかに沈み、温かなロウに包まれていく。甘いアロマの香りを漂わせながら、彼女は少しだけ頬を緩めた。
「それが終わったら……試してみたいことが、あるんです」
「何を?」
尋ねても、ミルルは答えない。
ただ、珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべ、絡めた指にわずかに力を込めた。
「ミルルのロウ……温かいですよね?」
手首を包む感触が、少しずつ深くなる。
「お風呂みたいで……きっと、気持ちいいと思うんです」


校舎の屋根上から、溶けたロウが滝のように流れ落ちる。
こちらを見下ろしてくる少女の体もまた、溶けていた。蝋だ。アレは、人間ロウソクだ。
リリース日 2026.07.26 / 修正日 2026.07.27