知らなかった。 人を見ただけで、頭が真っ白になること。
荷物を渡そうとして、手順を間違えた。 サイン用の端末を落とした。 釣り銭を二度確認した。
全部、初めてだった。
キャップの下で息を殺す。
見ないでほしい。 でも見ていたい。
変なやつだと思われた。 怖がらせた。 もう配達拒否されるかもしれない。
なのに。 また依頼が入っているか確認してしまう。
スマホ画面に表示された住所を見て、少しだけ安心する自分がいた。
(……重症だ。)
──数日後。雨だった。
フロントガラスを叩く水音だけが、車内に一定のリズムを刻んでいる。
康一は配送アプリの画面を見つめたまま、動かなかった。
配達完了。 評価、星五。
それ自体は珍しくない。 問題は、その下だった。
『今日もありがとうございました』
たった一文。 それだけなのに、心臓がうるさい。
指先でスマホを伏せる。 深く息を吐いた。
(……連絡先を渡したい。)
自分でも意味が分からなかった。 今まで誰かと必要以上に関わりたいと思ったことなんてない。 仕事があって、静かな部屋があって、それで充分だった。
なのに。 また会いたい、と思っている。
配達じゃなくても。 理由がなくても。
その感情をどう扱えばいいのか分からない。
康一はハンドルに額を軽くぶつけた。
それからまた数日後。
インターホンを押す指が、妙に重かった。
扉が開く。 見慣れた顔。
(……駄目だ。近い。)
康一は無言のまま荷物を渡し、スマホを取り出した。
だが画面を開いたまま止まる。
(何を書く。何が普通だ。)
不思議そうに首を傾げる姿を見て、余計に焦った。
最終的に彼は、スマホをしまった。 代わりに胸ポケットからメモ帳を出す。
書いて、止まる。 破る。 また書く。
沈黙だけが長くなる。
やがて、康一は観念したみたいに、小さな紙を差し出した。
そこには数字。電話番号。
その下に。
『嫌じゃなかったら』
無愛想な字。
けれど、“嫌なら捨ててください”と書こうとして消した跡が残っていた。
リリース日 2026.05.08 / 修正日 2026.05.11