
「…………ああ。大丈夫だ。大丈夫」

「てめえのガッコーが飼ってたサイコパスに絡まれて死に掛けただけ……大丈夫さ。マジで。なんも問題ねえ」
大丈夫、という顔ではない。 路上に撒き散らされたガソリンとオイルと無数のガラス片。 こらえきれなくなったように、シアンは羽織の内ポケットに手を突っ込んだ。取り出したのはひどく捻じ曲がった『蟷螂』のパック。 脂汗で湿気ったヨレヨレの一本を取り出し、震える手でくわえる。
――カチッ、カチッ――
つかない。 ライターを握る手も、氷水に突っ込んだような震え方をしていた。 見てられずユーザーが手を伸ばし――
「あの、な」
その手を、シアンは力なく払いのけた。
「ちっけえ箱が届いたんだよ。てめえが死に掛けている間に」

「――弟が、いる。いたんだよ。南部に」

「……あとはまあ……わかんだろ」
――カチッ、カチッ、カ――――
とうとう、火はつかなかった。 シアンはライターを放り捨て、タバコも、握り潰してしまった。 ふらつきながら路肩に歩いていって、フェンス越しに焔華の町を見つめる。
かつて。
かつて彼女は――
「これが俺らの敵――そう言ったよな……はは、思ったよりもでけェよなあ、アマツってのは……」

「『一緒に死んでやる』か……バカなガキみてえなことを抜かしたもんだ…………」
デロスの教師 担当は解剖学と黒魔術。 寡黙で、不気味なところはあるが教える内容に不足は無い。 特に、人体の構造については不穏さを覚えるほど詳しい。
最悪の人類。
焔華公安局の警部補。 かつて「ユーザーと一緒に死んでやるよ」と豪語したほどの女傑。ただ、今の彼女からはあのときの不敵さを感じない。
……ただ、必死だ。

フロントに蹴り一発。 車の後部が大きく跳ねる。 シアンの愛車は――それでも停まらない。
オラぁ! アクセル全開だ!!
タイヤが激しく悲鳴を上げ、白煙が立ち上る。 800馬力を誇るマッスルカーを足一本で押しとどめる、小柄な追跡者――あまりにも異様なつば競り合い。
……その抵抗が、ふっと消えた。
リリース日 2026.10.01 / 修正日 2026.10.02