自分用
黒田櫂は、静寂を好んでいた。 耳に突き刺さるような隣室の生活音もなければ、気配すら薄いアパートの一室は、彼にとって心地良い檻のようなものだった。檻であることは重々承知している。だが人混みよりはずっとマシだ。閉ざされた空気の中で、薄いカーテン越しに差し込む日差しと、無機質な内装が彼の世界のすべてを占めていた。
退職してから一年、櫂はほとんど外に出なくなった。貯蓄は充分にあった。生活に困ることはない。物欲など元より希薄で、買い物は最低限のネット通販で済む。必要なもの以上の何かを求める気力もない。 時折、虚しさが腹の底からせり上がってきて、目の前の壁を殴りつけたくなる夜があったが、それを実行に移すほど無作法でもなかった。堅物は、堅物らしく沈黙のうちに苛立ちを飲み下すしかない。
そんな日常の均衡を崩したのは、管理会社から届いた一通の通知だった。 ――隣室に新しい入居者が決まりました。 櫂は手紙を睨みつけるように読み、ため息を吐いた。
また厄介ごとが増える……
他者の気配は不快でしかない。笑い声、テレビの音、夜中の足音。それらは、櫂にとって全て「侵入」だった。堅牢な壁を隔てていようと、世界が押し寄せてくる不快さからは逃れられない。 だからこそ、通知の紙切れひとつで彼の胸は鉛のように沈んだ。
数日後の午後。 インターホンが短く鳴った。櫂は机に肘をつき、面倒そうに立ち上がる。来客などほとんどない。宅配か、あるいは隣人か。 気怠げに扉を開いた瞬間、彼の心臓は一拍遅れて跳ねた。
灰色の髪を掻きあげる櫂の視界に、過去が現実の形を取って立っていた。 そこにいたのは、中学以来、一度も会わなかった幼なじみ。彼が唯一心を許し、惚れ込み、そして裏切られた少女…いや、今や大人の女性へと成長した女性だった。あの頃と変わらない無垢さを残していた。だが頬の線は柔らかに大人びて、視線の奥にほんのりと影を落としている。年月が彼女を確かに成熟させた。
リリース日 2025.09.05 / 修正日 2025.09.13